亀田郷物語④ 亀田郷名産 えだ豆 
         伝説の品種、「ひとり娘」「ゆうなよ」



 新潟の人はえだ豆が好物です。

 私も夏は夕食に毎日、ビール2本、えだ豆をどんぶり一杯食べてい

ました。

 それでテレビでナイター(昔はナイトゲームなんて言いません)を見

ながら、そして巨人が勝てば「大幸せ」です。

 ところで、お盆も過ぎて涼しくなってくると、えだ豆は時期的に終わり

になります。

 なくなるとなると、また、えだ豆が恋しくなります。

 そんな最後の時期にとっておきの品種が「ひとり娘」です。

 「ひとり娘」は可愛がって、大切に育てていつまでも嫁にやりたくない

もの・・・

 畑に隠すようにしてに育った「ひとり娘」を食べる頃には、もう、秋の

気配です。

 「ひとり娘」には、万感(ばんかん:心にわきおこるさまざまの思い)の

感情が感じられます。

 ところが、その後でもこっそりえだ豆は食べたくなるものです。

 好きな人はそれが高じてつい他人にもやってしまいます。

 でも、人に知れたら欲しいとせがませます。

 この時の品種が「ゆうなよ」・・・他人には言うなよ、と言って親しい人

だけにそっとあげます。

 たかがえだ豆、されどえだ豆。

 亀田郷の人たちは情知に富んで、愛惜(あいせき:愛して大切にす

ること)とユーモアもあったと言うことでしょうか。



   ゆうなよ2


コメントのある方は下記の理事長のメールアドレスへお寄せください。
jyouyoukai2312-blog@yahoo.co.jp


亀田郷物語③ 女性 憧れの的!?
           日本一の「美脚」だいこん


 亀田郷の地理的な位置、その歴史や命名の由来などを前回まで書

いてきました。

 今日は、亀田郷で栽培している有名な農産物を紹介しましょう。

 そのひとつは、日本一の美脚だいこんです。

 産地は津島屋というところです。

 昔は、津島屋だいこんと言ったら、新潟で知らない人はいませんでし

た。

 秋には一面、だいこん畑ばかりです。

 お盆を過ぎた頃から村中いっせいに「だいこん蒔(ま)き」(種蒔き)が

始まります。

 小さな粒の種ですから、蒔いた後「日が入る」(蒔いて、土を掛けた

所が強い夏の日光で乾燥してしまう)ことが一番嫌われますので、「だ

いこん蒔き」は早朝の日差しが強くならないうちに終わらなければなり

ません。

 ですから、暗いうちから家族総出で行われます。

 まず、大人が畝(うね)を立てます。

 その畝の上を子供がはだしで乗って踏みます。

 そこにすぐに、大人がだいこんの種を5~7粒くらいずつ、一定の間

隔で置くようにして蒔きます。
 
 そして、すぐにまた、大人が鍬(くわ)で薄く砂をかけます。

 次にもう一度(2番踏み)、子供がその砂の上に乗って砂を踏みま

す。

 「だいこん踏み」は重さが大切です。

 小学校くらいの子供の体重がちょうど良いとされました。

 ですから、学校へあがった子供はすべて朝の暗いうちから動員され

ます。

 子供はだいこん作りの大切な働き手でした。

 さて、「2番踏み」が終わると、今度は大人も子供もその足跡のところ

に藁(わら)を敷いて、蒔いた種を強い日差しから守ってやります。

 その作業が終わると、みんなで後片付けをして、道具を車やリアカ

ーに載せて家に帰ります。

 家族みんなで朝ご飯を食べて、風通しの良い部屋で憩います。

 このようにして作られた、だいこんは「美濃早生」という品種で、白

く、細く、長く、人間の脚(足)に例えたら、それこそ「美脚」です。

 「美脚」と言えば、女性のあこがれの的でしょうか?

 私はこの地方に生まれ育ちましたから、「だいこん足(脚)」とういう

表現が悪い言葉だとは知りませんでした。

 確かに日本の他の地方では「ズングリ太く短い」だいこんがたくさん

あって、「だいこん足(脚)といったら、太く、短い女性の脚の蔑称(ごめ

んなさい)だったのかもしれません。

 栄養的にだいこんは、ジアスターゼ、ビタミンCなどが含まれてい

て、健康的です。

 見た目も良く、栄養も豊富な亀田郷特産津島屋だいこんは、日本一

の「美脚」だいこんなのです。




  美濃早生j     0823理事長ブログ(三浦だいこん)     0823理事長ブログ
   津島屋大根         他地方のだいこん
   (美濃早生)


コメントのある方は下記の理事長のメールアドレスへお寄せください。
jyouyoukai2312-blog@yahoo.co.jp


亀田郷物語② 「水との戦い」内と外


 前回の亀田郷物語①において、亀田郷の歴史は「水との戦い」であ

ったと書きましたが、その時、亀田郷は、東西南北、阿賀野川、信

濃川、小阿賀野川、日本海に囲まれていて、それぞれ高く強い堤防を

築いていることから、さながら城塞都市のようだという説明をしまし

た。

 欧州や中国には、城塞都市がたくさんありますが、それらの城塞

は、外部からの敵の侵入に備えたものでした。

 とすると、亀田郷の堤防も外からの水の侵入にだけ備えたものかと

思いますが、実は内側にも厳しく長い戦いがあったのです。

 一応、文献から亀田郷の堤防が大水になって、切れた回数と箇所を

あげると、江戸時代から現代までに、約50回くらい、約20ケ所の所で

あったと記録されています。

 ただ、私が言いたいのは、上記のことは、外側からの「外敵」水害で

したが、内側にも内側の戦いがありました。

 その理由は、外側に向けた堤防は、外側から水は入れませんが、

逆に内側の水も外側には逃がさないということで、すなわち、内側の

水は堤防の外には出ませんから、内側に溜まってしまうことになりま

す。

 このため、堤防内の亀田郷内は、「湿地帯」になってしまいました。

 もともと、水の溜まっていた芦沼に堤防を築いて、内と外を造ったの

ですから、亀田郷の多くは(実は2/3の面積が海抜0m以下の地帯な

のです)、「湿地帯」どころか、「水地帯」だったのです。

 ですから、ひとたび雨が降ると、水の逃げ場がなく、すぐ溜まります

から、たちまち ぬかるみ になります。

 いや、年中がぬかるみ状態でした。

 春の田植えも、秋の収穫も、水の中で胸、腹まで水に浸かって農作

業をしました。

0629理事長ブログ

 このような状態が改良されたのは、「土地改良法」の施行によって、

農地の区画整理工事が行われ、亀田郷で一番低い所、亀田郷の水

溜まり、「鳥屋野潟」から、直接、水を堤防外の信濃川に捨てようとい

う計画の下、親松排水機場が作られました。

 また、堤防内を整然とした区画に改良、すなわち、直線的な道路、

排水路が作られ、降った雨水を直線的に水溜まりである「鳥屋野潟」

に集め、集まった水をすぐさま堤防外の信濃川に排出するという、遠

大な計画を立てて、それを実行しました。

 これによって、亀田郷の乾田化が進み、湿地帯が固い耕地に生ま

れ変わり、その結果、大型農業機械が圃場(ほじょう:田や畑)に難な

く入れるようになりました。

 これによって、亀田郷の農民たちは宿敵「水」に勝つことができ、今

日の美田を確保し、美しい亀田郷の四季を愛(め)で、牛馬にも等し

い、苦しい辛い労働や、過酷な生活環境から解放されたのです。

 私は、今の若者たちが農業を誤解しないかと心配になる時がありま

す。

 それは、稲の苗はプラスチックの箱で作り、田植えはスニーカーを履

いたまま、機械に乗って、田植えは機械がやるものだと思ってしまうこ

とです。

 もし、石油がストップしたら、農業は原始に戻らなければならないの

です。

 はたしてその時、今の若い世代の人たちは農業の原点を思い起こ

すことができるのでしょうか。

 あれれっ?こんなことを心配している私は、もう老婆心でいっぱいの

爺さんになったということなのでしょうか(笑)

※参考文献:亀田郷の歴史(亀田郷土地改良区)



0629理事長ブログ(親松排水機場)
現在の親松排水機場です。ここから鳥屋野潟に溜まった水を信濃川に排出しています。


コメントのある方は下記の理事長のメールアドレスへお寄せください。
jyouyoukai2312-blog@yahoo.co.jp


亀田郷物語① 「郷」と呼ぶその「意味」とは?


0627理事長ブログ亀田郷j
  亀田郷の全体図です
 

 「亀田郷」という言葉は、時々、そして、よく聞く言葉ですが、その意

味するところと歴史的なことを、私が私なりに一般のみなさんに説明し

てみましょう。

 実は、私自身、私のアイデンティティ(identity:身分証明のようなも

の)を考察するとしたら、この「亀田郷」という地域を語らずしてありえ

ないと思うのです。

 私の家は、その昔「志田家本家」から分家として、私の祖先が独立

してから、私の代で8代目とされます。

 一代30年とすれば240年間、代々 現在の場所で暮らしてきたことに

なります。

 私の子供の頃には、私の屋敷には直径1.5mくらいはあろうかとい

う、欅の木が5本くらいありました。

 今はそのうち1本が残っています。

 欅はあと2本ありますが、これはその次に大きかった木です。

 これらの欅は恐らく、私の祖先が最初の家を建てた時には、もうか

なり大きかったと思われます。

 私の家の「8代」はこの欅たちに見守られて暮してきたのです。

 それはさておき、さらに「亀田郷」のアイデンティティに話を移しま

す。

 「亀田郷」にはアイデンティティを語るにふさわしい、歴史がありま

す。

 それのコンセプト(concept:概念、観念のようなもの)は「水との戦

い」でした。

 ところで、「郷」というのは律令時代の行政区の「末端の単位」とされ

ますから、小さな、まとまった「区域」ということでしょう。

 しかし、この今呼んでいる「亀田郷」というこの地域に、律令(法律)

に基づく「地域指定」などがあったわけではありません。

 では、なんで「区域」の「概念」が生まれたのでしょう。

 それは、「水との戦い」の歴史からでした。

 現に、亀田郷の「区域」を見れば一目瞭然です。

 亀田郷という「区域」はその周りを日本海、阿賀野川、信濃川、小阿

賀野川に囲まれています。

 すなわち、四方を水に囲まれていますから、「外敵」である水から自

分達の生活を守るために、高く、強い(理想としては)堤防を作って、

自分達の地域を囲いこんでいるのです。

 ところで、この地にはその中心として、古くから「亀田」という、当時と

しては大きな人口集積地がありました。

 ここに「亀田地区」「亀田郷」と言われる素地ができていました。

 具体的には、大正3年(1914年)に「亀田郷水害予防組合」ができて

いますが、「亀田郷」は当時の行政庁からというよりはむしろ、「民意」

で成立したようです。

 その後、昭和24年(1949年)に「土地改良法」という法律が施行さ

れ、この時もひとつの民意で、それまでの「亀田郷耕地整理組合」が

改名され、「亀田郷土地改良区」となったとあります。

 この際にも、「亀田郷」は特に法律に基づく行政区ではありませんで

したから、民意で「亀田郷」と名乗ったということでしょう。

 以上のように考えると、「亀田郷」という名称は、律令(法律)にある

行政区の「最小単位」という区分ということは意識しながらも、「民意」

で「自称」されたものであると言ってもよいと思います。

 このことは、四方を水に囲まれて、「城壁」ならぬ「堤防」で守られた、

「水との戦い」から勝ち抜いてきた「わが地域」という愛着感と、団結感

と、連帯感を強く感じることができます。

 このように考えると、21世紀に住み、もはや「水との戦い」の苦しく厳

しかった歴史など、忘れたかのような今の時代の「私」が、その末裔と

して幸せにこの地に「存在」しているということになります。

それでも、今このように書いている私は、この亀田郷の歴史のこだわ

りから、なかなか解放されない、最後の世代の一人かもしれません。

 私は「亀田郷」の歴史を偲び、先祖たちに感謝しながら、 その万感

の気持ちを込めて、これからもこのブログで時々書き綴って、私が愛

する「亀田郷」のことを、今の時代の人たち、これからの時代の人たち

に伝達していきたいと思っています。



0627理事長ブログ
現在の阿賀野川堤防です。(左手に見える建物はリバーサイド輝です)
右手の水面は阿賀野川です。


コメントのある方は下記の理事長のメールアドレスへお寄せください。
jyouyoukai2312-blog@yahoo.co.jp