2012.07.16
世界歴史物語① おなじみ「三国志」 赤壁の戦い
世界歴史 物語①
おなじみ「三国志」 赤壁の戦い

このブログは土日を除いて毎日書いています。
ブログのレパートリーを広げるため、世界や日本の「歴史物語」を開
設してみたいと思います。
今日の三国志を推薦したのは、私のブログ担当者です。
日本の若い女性たちが三国志など中国歴史古典に興味を持ってい
ることを私は不思議に思います。
いや、私はそれに反対だというのではなくて、書店に行って覗いて
見ると、若い女性を対象とした、写真の多いファッション雑誌を購入す
る人たちが、漢字だらけのような、中国モノに人気があるなどと想像
できないからです。
でも、「赤壁の戦い」は「レッドクリフ」の題名で映画になり、日本では
女性が大勢出掛けたようでした。
三国志が好きな、「三国志オジさん」の私としては、でも、最初にウン
チクとして次のことを言っておかなければなりません。
日本人が「三国志」として愛好しているのは、中国の史書、すなわち
後晋(こうしん)の陳寿(ちんじゅ)が著した「三国志」の方ではなくて、
後世の明代の羅貫中(らかんちゅう)という「小説家」が書いた、いわ
ば三国志「物語」だということです。
それは「三国志演義(さんごくしえんぎ)」というものです。「演義」とい
うのは、「物語」という意味です。
史実に虚構を加えて脚色して、おもしろくしたものです。
だから、とってもおもしろいのです。(笑)
花も実もあって、血も涙もたっぷりあります。感動ものです。
史書「三国志」にはない出来事や人物が出てきます。
前置きがとっても長くなりましたが、では始めましょう。
時は 後漢末の西暦208年の冬。
魏の曹操は戦乱の中国全土を統一せんと、長江(揚子江)を超え
て、楚の呉国に攻め入らんとします。
そうはさせじと呉の孫権と曹操の「宿敵」劉備は連合軍を組んでこれ
を阻止しようとします。
曹操20万の大軍(演義では80万)に対して、劉備孫権連合軍はわ
ずか3万です。
長江を境にして、北(北西)岸と南(東南)岸にそれぞれ布陣して、対
決の時を待ちます。
勝敗は一夜にして決しました。
わずか三万の劉備孫権連合軍が勝ったのです。
勝因は「風」でした。
季節外れの東南風が吹いて、これに乗じた劉備孫権連合軍が曹操
軍に壊滅的な打撃を与え、「常勝」曹操は命からがら魏国に逃げ帰り
ました。
以後、これほど大掛かりな戦はなくなりました。
曹操の威力が鈍ったからです。
ところで、この一戦を私流に解説すると次のようになります。
まず、長江を(大きさは比べ物になりませんが)阿賀野川だとして、
北西の新潟側に魏軍、曹操が布陣します。
対して、東南の豊栄側に劉備孫権連合軍が対峙(たいじ)します。
冬なら、新潟にも北西風が毎日吹きます。
新潟にはまずないと思うのですが、この赤壁の地ではごく稀に反対
側から東南風が吹くことがあるというのです。
新潟では、この東南風を「だしの風」といいます。
だいたい早春に吹きます。
この「だしの風」が俗に「北風」と言われる冬の風の最中に、逆に豊
栄側から新潟側に吹くなんて、(それも強風になって)新潟の人なら誰
も想像できませんよね。
それがこの赤壁ではあったのです。
その風に乗って、劉備孫権連合軍は燃えやすい枯れ草や油を積ん
だ、たくさんの舟で曹操軍に火攻めの大攻撃をかけました。
曹操軍のおびただしいほどのたくさんの舟は、風で動かないように
舟ごとに鎖で繋がれていたために、身動きが取れず、焼かれてしまい
ました。
ともかく結果は、劉備孫権連合軍が乾坤一擲(けんこんいってき:運
命をかけて大勝負すること)の勝利でした。
むろん、その背後には、それぞれ「遠大な」謀略作戦がありました。
これについては「演義」におもしろく書かれています。
「三国志」のヒーロー諸葛孔明が神がかり的に活躍します。
一瞬の勝利にも、多年の努力が大切だということが学ばれます。
今日は前置きがあって長くなりましたが、中国古典は日本の多くの
人が人生の座右の書としているところですから、次回、もっとおもしろく
書いてみたいと思います(笑)
おなじみ「三国志」 赤壁の戦い

このブログは土日を除いて毎日書いています。
ブログのレパートリーを広げるため、世界や日本の「歴史物語」を開
設してみたいと思います。
今日の三国志を推薦したのは、私のブログ担当者です。
日本の若い女性たちが三国志など中国歴史古典に興味を持ってい
ることを私は不思議に思います。
いや、私はそれに反対だというのではなくて、書店に行って覗いて
見ると、若い女性を対象とした、写真の多いファッション雑誌を購入す
る人たちが、漢字だらけのような、中国モノに人気があるなどと想像
できないからです。
でも、「赤壁の戦い」は「レッドクリフ」の題名で映画になり、日本では
女性が大勢出掛けたようでした。
三国志が好きな、「三国志オジさん」の私としては、でも、最初にウン
チクとして次のことを言っておかなければなりません。
日本人が「三国志」として愛好しているのは、中国の史書、すなわち
後晋(こうしん)の陳寿(ちんじゅ)が著した「三国志」の方ではなくて、
後世の明代の羅貫中(らかんちゅう)という「小説家」が書いた、いわ
ば三国志「物語」だということです。
それは「三国志演義(さんごくしえんぎ)」というものです。「演義」とい
うのは、「物語」という意味です。
史実に虚構を加えて脚色して、おもしろくしたものです。
だから、とってもおもしろいのです。(笑)
花も実もあって、血も涙もたっぷりあります。感動ものです。
史書「三国志」にはない出来事や人物が出てきます。
前置きがとっても長くなりましたが、では始めましょう。
時は 後漢末の西暦208年の冬。
魏の曹操は戦乱の中国全土を統一せんと、長江(揚子江)を超え
て、楚の呉国に攻め入らんとします。
そうはさせじと呉の孫権と曹操の「宿敵」劉備は連合軍を組んでこれ
を阻止しようとします。
曹操20万の大軍(演義では80万)に対して、劉備孫権連合軍はわ
ずか3万です。
長江を境にして、北(北西)岸と南(東南)岸にそれぞれ布陣して、対
決の時を待ちます。
勝敗は一夜にして決しました。
わずか三万の劉備孫権連合軍が勝ったのです。
勝因は「風」でした。
季節外れの東南風が吹いて、これに乗じた劉備孫権連合軍が曹操
軍に壊滅的な打撃を与え、「常勝」曹操は命からがら魏国に逃げ帰り
ました。
以後、これほど大掛かりな戦はなくなりました。
曹操の威力が鈍ったからです。
ところで、この一戦を私流に解説すると次のようになります。
まず、長江を(大きさは比べ物になりませんが)阿賀野川だとして、
北西の新潟側に魏軍、曹操が布陣します。
対して、東南の豊栄側に劉備孫権連合軍が対峙(たいじ)します。
冬なら、新潟にも北西風が毎日吹きます。
新潟にはまずないと思うのですが、この赤壁の地ではごく稀に反対
側から東南風が吹くことがあるというのです。
新潟では、この東南風を「だしの風」といいます。
だいたい早春に吹きます。
この「だしの風」が俗に「北風」と言われる冬の風の最中に、逆に豊
栄側から新潟側に吹くなんて、(それも強風になって)新潟の人なら誰
も想像できませんよね。
それがこの赤壁ではあったのです。
その風に乗って、劉備孫権連合軍は燃えやすい枯れ草や油を積ん
だ、たくさんの舟で曹操軍に火攻めの大攻撃をかけました。
曹操軍のおびただしいほどのたくさんの舟は、風で動かないように
舟ごとに鎖で繋がれていたために、身動きが取れず、焼かれてしまい
ました。
ともかく結果は、劉備孫権連合軍が乾坤一擲(けんこんいってき:運
命をかけて大勝負すること)の勝利でした。
むろん、その背後には、それぞれ「遠大な」謀略作戦がありました。
これについては「演義」におもしろく書かれています。
「三国志」のヒーロー諸葛孔明が神がかり的に活躍します。
一瞬の勝利にも、多年の努力が大切だということが学ばれます。
今日は前置きがあって長くなりましたが、中国古典は日本の多くの
人が人生の座右の書としているところですから、次回、もっとおもしろく
書いてみたいと思います(笑)
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