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世界歴史 物語⑥ 
    「平成」をさらに解説すると・・・


 前回のブログで 平成の年号は、戦争のあった「昭和」から平和を願

って中国の古典から選ばれたのでしょう、と「簡単」に書きましたが、こ

れは「簡単」すぎました。

 今、私が急いでここに加筆する理由は、今日的な、国内、国外の情

勢が、司馬遷が書いた「平成」の意味の中に内包されているからで

す。

 つまり、国際感覚のとらえ方は、司馬遷が史記を著(あらわ)した、

今から2100年も前と、また、舜帝がいた時代とされる5000年前(推

定)時代とそれほど違わないのです。

 「平成(内平外成)」の「内(うち)平(たい)らかにして 外(そと)

成(な)る」は、国内が平定されて、内輪もめなどがなければ、国力が

充実して、国威(こくい:国の威光)が高揚(こうよう:気分、精神が高ま

ること)し、その結果、国外の勢力もそれを畏布(いふ:かしこまってお

それること)し、国外において武力を用いることもなく、友好関係が達

成される、というものだとしているのです。

 つまり、「内憂外患」とは正反対にある言葉です。

 この「平成」を年号に決めた 竹下内閣の頃は、日本はGNP世界

第二位の立場で、国力が充実し、国際的にも諸外国から注目を受け

ていました。

 すなわち、日本の「国威」が世界に認められていました。

 また、日本もそのような世界的世論の中で、世界の国々から期待も

され、自信を持っていた時代でした。

 そのような時代の中で、「平成」は年号となったのです。

 しかるに、今はまったく逆の時代といってよいでしょう。

 前回も書いたように、国内の諸問題の停滞、政治の混迷。

 国外にあってはそれを見越しての外国、とりわけ隣国からの外交な

きがごときの「攻撃」。

 まったく、「平成」命名の志や、気概、願いはどこへ行ったと、嘆くべく

ことだと言いたいのです。

 私はこのブログで政治的なことを言うつもりではありません。

 強いて言えば、私の世相論です。



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世界歴史 物語⑤ 
   年号「平成」とは こういう意味だったのか。 
                  「平成」の意味と願い。



 年号が平成になってから、はや24年です。

 平成で思い出すのは当時の竹下内閣で、小渕官房長官が新しい年

号発表の記者会見で 「平成」と大きく書いた額を掲げて見せたことで

した。

     0913理事長ブログ

 そもそも日本の年号は、主に中国の古典からとられます。

 「平成」は司馬遷(しばせん)の「史記(しき)」の五帝本記(ごていほ

んぎ)の【舜帝(しゅんてい)】の記述から採用されています。

 中国では、伝説の帝(聖王)として、堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)

などが あげられます。

 舜は幼くして母を亡くしたので継母(ままはは)に育てられます。

 大体、中国では継母は先妻の子に辛くあたるというのが一般的で

す。

 舜は継母やその子(義弟)、そして実の父からも疎まれ、殺されそう

になったこともあります。

 しかし、舜は身を修め、立派に成人し、人々の信用を得て、堯帝が

自分の位を譲ろうとして、 民衆に問うたところ、誰もが舜を推挙(すい

きょ:推薦すること)します。

 舜が帝位を継いで政治をしたところ、国の内部に争いがなくなりまし

た。

 国内に波風が立つことなく 平らかな平和な世相となりました。

 その結果 国力は充実しますから 国の外においても、外国にあな

どられることもなく むやみな外国と対立がなくなり、したがって外国と

は、平和が達成されました。

 このことを「内(うち)平(たい)らかにして 外(そと)成(な)る」(国内

が平和で 外国とも友好関係が成立する)「内平外成」と、司馬遷(し

ばせん)は表現しています。

 さらに私が説明をすると、これは「内憂外患」内憂外患とは内(国内)

に憂い(心配事)があって 外(国外との間に わずらいがある事・・・)

の反対の言葉となります。

 「平成」の年号は、戦争のあった「昭和」から平和を願って、この中国

の古典から選ばれたのでしょう。

 しかるに、昨今の日本の世相はどうでしょう。

 「内」には長い不況から来る、経済の停滞。

 そして、政治の混迷。

 とても平らかな状況とは言えません。

 「外」にあっては、隣国との関係の軋(きし)み。

 とても外交が成功しているとは言えません。

 「平成24年」に当って、「平成」命名の志や願いはどこへ行った?と

思わざるを得ませんね。

 早く 戦いの「昭和」が終わって 誰もが願った平和な「平成」の日々

が来てくれることを望んでやみません。



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世界歴史 物語④ 日本の子供達のために? 
       8月を1日増やした古代ローマ皇帝



 現在、使用されている暦の原形となったのは、ユリウス暦(ユリウス

れき)です。

 ユリウス暦は、ユリウス・カエサル(英語読み:ジュリアス・シーザー)

によって制定され、紀元前45年1月1日から実施されました。

 今年はオリンピックの年です。

 オリンピックは4年に1度、閏年にあります。

 1年を365.25日として閏年は4年に1度と決めたのは、ユリウス暦

でした。

 また今日からは8月が始まりますが、8月は当初30日の「小の月」

でした。

 これが1日増して「大の月」31日になったのは、ある皇帝の権力の

誇示、「わがまま」からでした。

 それには、こんな事情があります。

 古代ローマの初代皇帝はアウグストゥスと言いますが、彼はユリウ

ス・カエサルの姉の子で、本名はオクタビアヌスと言い、後、ユリウス・

カエサルの養子となり、カエサル暗殺の後は、彼の財産を相続し政治

的後継者となり、その後、見事に叔父ユリアス・カエサルが成し遂げら

れなかった、古代ローマの(初代)皇帝になりました。

 彼は、カエサル以後、誤って運用されていた閏年を正しく4年に1度

と制定し直し、同時に8月の名称を自分の名Augustus(アウグストゥ

ス)に変更しました。

 そして、8月の日数を増やして31日としました。

 おかげで、2月は29日から28日に減らされました。

 それは、自分の名をつけた8月が叔父ユリウス・カエサルの名にち

なんだ7月よりも、日数が少ないことが嫌だったからだということです。

 古代から、暦を制定したり、それに改良を加えることは、皇帝の権威

の「専権事項」のようなものでした。

 実は、アウグストゥス帝以後、何人もの皇帝が自分の名を月の名称

につけましたが、その皇帝が死ぬと、どの「改名」もすぐに元に戻され

てなくなってしまったそうです。

 しかし、7月のユリウス(Julius)と8月のアウグストゥス(Augustu

s)の2つだけは残って今日に至っています。

 7月のユリウス(Julius)は英語ではJuly(ジュライ)、8月のアウグ

ストゥス(Augustus)は英語ではAugust(オーガスト)といい、今日も

英語圏(日本も)では使われています。

 ところで、「ユリウス・カエサル」(ジュリアス・シーザー)と「ユリウス・

オクタビアヌス」は、叔父、甥の関係ですが、共に紀元前1世紀頃の

人で、古代ローマの共和制の末期と帝政の始まりの時代を「主役的」

に生きました。

 カエサルは、まさに一代の英雄でした。

 戦術家として、行政官として、そして文筆家としても。

 さらに「英雄色を好む」がごとく、女性にもモテモテだったそうです。

 彼は、古代ローマの政治的不安定な共和制を終わらせ、個人によ

る独裁的な安定を求めて、自らが皇帝につこうとしていましたが、そ

れを警戒する人達によって暗殺されてしまいます。

 一方、オクタビアヌス(アウグストゥスという名称は彼が皇帝になる

時、元老院から贈られた称号で、「尊厳のある者」という意味です)

は、叔父であり「養父」であるカエサルの轍(てつ)を踏(ふ)まぬよう、

(同じ失敗をしないよう)用心をしながら、カエサル暗殺後の内乱を鎮

め、帝政を創始します。

 これを「古代ローマ帝国」といいます。

 彼以後、古代ローマ帝国は西欧社会において何世紀にも渡って平

和をもたらしました。

 これが、「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれるものです。

 オクタビアヌス(初代皇帝アウグストゥス)もカエサルとはまた違う大

きな功績がある人物ですから、自分の名をとった8月を、ユリウス暦を

制定したカエサルに負けじと、1日増やしたくらいは許せるというもの

でしょうか。(笑)

 8月が1日増えたことは、8月が夏休みである日本の子供たちにとっ

て、とても嬉しいことですよね(笑)


0801理事長ブログ シーザー
ユリウス・カエサル立像


0801理事長ブログ アウグストゥス
アウグストゥス(ユリウス・オクタウィアヌス)立像


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世界歴史 物語③ 三国志「赤壁余話」
      後世の「詩人」 杜牧、美人姉妹を追想す



 昨日のブログで、私が詩人 杜牧を愛好するあまり、次回は杜牧の

「赤壁」の詩を紹介しましょう、と言ってしまいました。

 しかし、漢詩は当然のことながら漢字が並んでいるばかりで、おもし

ろそうではありません、見ただけで難しそうです。

 さらに文法も日本語式ではなく、英文式です。

 例えば、「私は 学校へ 行く」というのは、「私は 行く 学校へ」と書き

ます。

 でも、漢字には一文字一文字意味がたくさん込められています。

 たった一文字でも、その意味を日本語で説明しようとしたら、長々と

した説明になることがあります。

 しかし、慣れてしまえば、ふくよかな味わいが出て、親しめるのでは

ないかと思われます。(もちろん、私などはその域に達していません

が)

 先に杜牧の「赤壁」を説明しておきますと、このようになります。

 杜牧が赤壁の地を訪れたのは、赤壁の戦いの600年くらい後のこと

でした。

 もはや戦争などなかったかのような風景をしています。

 ところが、砂にうずもれた中から錆びた鉄のかたまりのようなものが

出てきました。

 それを洗って、磨いてみると、それはまさしく鉄製の矛のようです。

 しかも、折れています。

 その様子から、戦いに使われたものだと推測できます。

 とすれば、この矛は、その昔、ここに展開されたという、「赤壁の戦

い」のものに違いない、そのすさまじかった戦いの名残の証拠となる

ものです。

 この時、初めて、600年もの昔の戦いが現実のものとなります。

 だとすると、あの時・・・冬の北風の時期に運よく逆の東風が周瑜の

ために吹いてくれなかったら(呉は負けてしまっていただろうから)、周

瑜の妻(小喬)はその姉(大喬)とともに、勝利した曹操に魏の国に連

れ去られてしまっていただろう。

 現に曹操は、赤壁の戦いが終わった後、本国の魏に帰り、その都に

「銅雀台」という華麗な御殿を建てて、大勢の美女をはべらし、宴楽を

繰り返していましたから、もし、美人姉妹の「二喬」を得ていたら、二人

共 曹操の寵妾(ちょうしょう)となって、この館に留め置かされただろ

う。

 「周瑜のために」と言っているのは、赤壁の戦いにおいて呉軍で一

番活躍したのは大都督として任ぜられた周瑜でした。

 呉が負ければ、当然に絶世の美女として有名だった彼の妻小喬も、

姉の大喬も「戦利品」として敵将の手に渡るのは当然のことでしたか

ら、とりわけ「周瑜のために」と言っているわけです。

 詩の構成としては、杜牧は頭脳明晰な人でしたから、まず、赤壁の

戦いが現実にあったことを証拠を示した上で認めさせ、その上で、詩

人 杜牧の「想像」に真実味を持たせ、赤壁の戦いとそれを巡る曹操

の野望、周瑜と小喬の「危機」の帰趨(きすう)やいかに、という「物

語性」に興味を添え、詩情にふくらみを持たせているのです。

 以上、これは私なりの解説です。

 あとは、岩波書店「杜牧詩選」(松浦友久、植木久行 編訳)から、詩

と書下文(かきくだしぶん:漢文を日本語の語順にしたがって読み、仮

名交じりに改めた文)と説明文をそのまま転載しておきます。

0720ブログ

※やっぱり難しかったですか?
 書下文を声をあげて何回も読み、暗記してしまうことが大切です。
 この杜牧の「赤壁」は三行目と四行目が特に杜牧の「味わい」です。
 私が大好きなフレーズです。
 自分がふくよかになった気がしますよ(笑)


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世界歴史 物語② 三国志「赤壁余話」
         ・・・曹操が狙う? 江東の美人姉妹
 


 江東というのは、長江(揚子江)の東側の地方すなわち、楚(そ)のこ

とを言います。

 「赤壁」を戦った呉国の中心人物は、もちろん、孫権です。

 そして、もう一人います、それは、赤壁の戦いに当って、大都督に任

ぜられた周瑜(しゅうゆ)です。

 孫権には兄がいました。

 孫策といいます。

 この孫策は、大人物であったようです。

 「江東を平定した呉の小覇王」とされていましたが、若くして病死しま

した。

 その兄の偉業を継いだのが弟の孫権でした。

 ですから、曹操が攻めてきた「赤壁」の時点では、孫権の基盤はま

だ盤石ではありませんでした。

 国難に際して、国内をまとめるのに大変苦労した様子が書かれてい

ます。

 孫権より年長の周瑜は、もともと兄の孫策と仲が良かったようです。

 江東平定の折、喬(きょう)という名家に「絶世の」美人姉妹がいまし

た。

 姉は大喬、妹は小喬と「史書」「演義」ともに書かれています。(後で

書く機会があるかもしれませんが、このあたりの呼び方はとっても中

国的だと思います)

 ともかく、世間の評判にあがるほどですから、二人とも「名代」の美

人だったのでしょう。

 そして、姉の大喬は孫策の妻に、妹の小喬は周瑜の妻となりまし

た。

 このあたりの記述は江東平定の折、勝者の将軍孫策と周瑜が「戦

利品」として、この美人姉妹を分かち合ったかのように書かれていま

す。

 大喬は孫策の正妻ではありませんでした。

 映画「レッドクリフ」には小喬が登場します。

 この役を演じたのは、台湾出身の有名な美人女優さんだったという

ことです。

 「レッドクリフ」は「演義」をもとにして、それをさらに脚色しているよう

です。

 すなわち、曹操の楚進出の目的は、実はこの大喬、小喬の美人姉

妹を獲得せんがためのものであったというくらい、強調されていまし

た。

 確かに曹操は、「英雄色を好む」を地でいくような逸話が他にもあり

ますから、このような話の筋書きも十分可能だと思います。

 後世の唐の時代の「詩人」杜牧(とぼく)もこれに便乗して、彼特有の

奔放自在な感覚で「赤壁」の詩を書いています。

 実は私は、杜牧が好きなので、次回は、この杜牧の「赤壁」の詩を紹

介しましょう。

 杜牧は「乱世の英雄」曹操とは違って、「平冶の能臣」を地でいくよう

な「政府高官」でいました。

 事実、彼は難しいことで有名な、中国の官吏登用試験である科挙

(かきょ)に若くして合格したほどの明晰な頭脳の持ち主でした。

 また、大胆にも、誰はばかることなしに、酒と女と詩作をこよなく愛

し、どこへ行くにも美女と酒樽と一緒というほどの人でした。

このような点を見ると、きっと杜牧は、乱世を思うがままに生きた曹操

を敬慕(けいぼ:うやまいしたうこと)の念で見ていたのではないかと、

私は勝手ながら歴史ロマンのひとつとして想像しています。(笑)



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