日本歴史物語④
 邪馬台国 所在地論争(2)
  「邪馬台国」「卑弥呼」「倭」とは何だ?

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  Wikipediaより 「吉野ヶ里遺跡」

 「邪馬台国」も「卑弥呼」も「倭」も、その時代の中国人がそれぞれにつけた文字です。
 中国人には中華思想がありますから、周辺の人や国などを蔑視(べっし)しているせいでしょう。悪い字をあてているのが常のようです。
 総じて周辺、東西南北の異民族などを称して「東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)」と言っていたようです。
 夷(い)も戎(じゅう)も蛮(ばん)も狄(てき)もひとつの「蔑称」です。
 民族の個称として例をあげれば「倭(わ)」や「鮮卑(せんぴ)」、「匈奴(きょうど)」などがあります。
 「倭」は、倭国(日本)倭人(日本人)などと使いますが、「背が丸く曲がって低い人を指す」とされる文字ですから、決して良い字ではないのです。
 「邪馬台国」は、日本人が「ヤマト」と言っていたのをカタカナ的に音からヤマトを「邪馬台」とし「国」を語尾につけたものでしょう。トの音に台をあてたもので、これを日本では日本読みで律義にも台をタイと発音しているのです。
 当時の日本人が自らを「ヤマタイ」と言ったものではなく「ヤマト」と言ったものを中国人が「邪馬台」と表記したものなのです。
 ちなみに中国語では、アメリカ(合衆国)をその発音のアクセントがメィにあることで、「美国」としています。(日本は同じような理由でも「米国」と表記しています。)
 美は中国語では「メィ」の発音がありますから、アメリカを良い字で「美国」と表記したのは、当時(18世紀)アメリカの台頭が大国で先進的な文化を持っている国として崇められたからでしょう。
 さて、前述したように「邪馬台国」は「ヤマト(国)」ですが、そのあて字は、やはり良いものではないのです。
 「邪」は「よこしまで、正道から外れてねじけている」という意味の文字です。「馬」は家畜であったり、戦車を引いたり人間のために労役をする道具でしかないものであるとの理解です。
 「台」は悪い文字ではありませんので、そこでこれがつくと国名らしく見えます。

 では、「卑弥呼」はどうでしょう。
 これも悪い字であることは、あらためて論ずるまでもないので 「卑弥呼」の漢字の解説は省略して、発音の「ヒミコ」についての解説を次のようにしましょう。
日本の古代において、天皇の男の子は「皇子」「親王」であって、「みこ」と呼ばれていました。
 同じく女子は「皇女」「内親王」で「ひめみこ」と呼ばれていました。
 この場合、個人の本当の名は呼ばれることはなく、仮に姉妹であれば上のひめみこ、下のひめみこなどと呼ばれます。後世の例ですが、源氏物語などに見られます、一般に名を明かさないのは呪詛(じゅそ:恨みに思う相手に災いが起こるように神仏に祈願すること)の対象になるとされたからです。
 ですから、「卑弥呼」は個人名ではなく、「実名」ではありません。
 そこで「ひめみこ」が中国人には「ひみこ」と聞かれ「卑弥呼」の文字があてられたと考えられます。
 ですから、「邪馬台」も「卑弥呼」も日本人がこの文字を使って自ら名乗ったり、書いたりした文字ではなく、当時の中国人が「まことに勝手ながら」つけた「当て文字」なのです。
 このように考えて、「邪馬台国」は「ヤマト(国)」であり、(この例で言うと例えば 日本の政府専用機の機体には「日本国」と大書されています)
さらに「卑弥呼」は「ひめみこ」であるとすれば、これはすなわち、そのすぐ後の時代の「大和王権」や「大和朝廷」の前身を示唆するものとして、「邪馬台国(ヤマト)」の所在地が畿内(奈良県あたり)とする説が有力となるものです。
 このようなことからも私の畿内説は、じゅうぶん説得力を得てくるものとなるのです。

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    復元された卑弥呼像



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日本歴史物語③
邪馬台国 所在地論争(1)
 卑弥呼の女王国は、畿内(奈良県)にあった


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      安田靫彦(やすだゆきひこ)作品 「卑弥呼」

 日本の古代史において最大の謎と言ったら、表記の「邪馬台国の所在地」ということになるかも知れません。
 最近でも卑弥呼の墓(古墳)はどこだとかと話題が新聞などによく報道されます。
 「邪馬台国」「卑弥呼」については、「魏志倭人伝」に記述されていることがすべてです。
 私は、40年くらい前からこの問題に興味を持って、関連の情報に注意を払ってきました。
 そこで私の結論から言えば、邪馬台国は畿内にあったとすべきなのです。
 「魏志倭人伝」は、漢文にして2000字(400字づめ原稿用紙5枚)くらいのボリュームですから、書き下し文を参考にすれば、誰にでも読むことはできます。
 これを素直に平明にその「大意」を読めば、「畿内」とするよりほかありません。なぜならば、「魏志倭人伝」では邪馬台国への道程が「帯方郡の使者」(以下 使者)の「旅行記」「報告記」として引用される形で記述されているのですが、使者は、伊都国までしか来ていないのです。
 そう判断する理由は、伊都国まではその滞在地のことが自らの見聞によって書かれていますが、それ以後の地点のことについては、特に自らの記述はないのです。
 このように、「使者」が邪馬台国まで行っていないとする、このことから導き出される結論は、以下のようになります。

***さて 以下の理由から邪馬台国の位置を明確に求めている説を唱えているのは 不思議にも実は全国で私が初めてなのです。
   もし 先に述べておられる人がいたら ぜひ指摘していただきたいと思います。***
 
今日、邪馬台国の所在地であったろうとされるところは、「北九州」または「畿内」の2点にしぼられているわけですから、「北九州」の「有力」候補地点までは、せいぜい伊都国から50㎞くらいの範囲の地点となっています。これは、新潟から長岡まで届かないくらいの近さにあるわけです。よって、「使者」が行けないわけも、行かないわけも合理的には説明が極めてつきにくいということになります。

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 一方、「畿内」とすれば、記述からして片道、だいたい2ヶ月から3か月くらいもかかるとされる地点ですから、伊都国から何らかの理由で行かなかった理由としては、「そこが遠くにあって、長い期間がかかるから」という合理的な理由がつけられます。
 当時は、渡航の時期というものがあって、その時期というのは3月から5月くらいの間とされているようです。
 「使者」は、なんらかの理由で1年以上は倭国にとどまることができないという理由で、すぐさま短い期間で帰国したに違いありません。
 わずか50㎞くらいの間だったら、往復5~6日もあれば当時としても行って帰って来られる距離です。「使者」なら必ず行ったでしょう。それが行けなかったのは 行かなかったのは
 すなわち 邪馬台国は遠い所にあったから、もし行っていたら翌年の3月~5月まで帰ることができなかったので、「使者」は邪馬台国に行くことができなかった とすることが極めて順当な理由となるのです。
もし 事実行っていたとしたら もっと生々しい「見聞」を書いているはずです。
 よって、これらの事情から私は、邪馬台国は畿内の奈良県あたりにあったと主張するのです。

 ところで、私がこのような「自説」を「勝手」に唱えられる理由は、実は「邪馬台国所在地論争」というのは、不幸にして?古来、だれもが、勝手気ままと思えるほど、時には「でたらめ」なほど自由に自説を立てて発表してきました。
確たる証拠がないことに乗じて?まさに百花繚乱のごときなのです。だいたい200説くらいはあるらしいです。
 その理由については、また次の機会に書きましょう。
 それほどに この問題はその人をしてロマンに駆り立てる問題と言えるのでしょう。




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日本歴史 物語② 「古代史の謎」?
       邪馬台国 比定地論争を斬る



 昨日で世界旅物語として、近くてとっても遠い国 北朝鮮レポートが13回をもって終了しました。
 行ったことがなければわからないこと。行ってこそわかることはあります。
 今度は、まだ「古代史のなぞ」とされる、邪馬台国の比定地(ほんとの位置がわからないので、それはここだと主張している位置)論争について、私の「自説」を説いてこの論争に「とどめ」をさしたいと思います。
 きっと、みなさんは納得されることでしょう。
 私としたらなぜこんな簡単なことがわからないのか不思議でなりません。
 きっとだれもがこの問題について、半分はふざけて遊んでいるのではないかと思うくらいです。
 少し資料など用意して、近日中あたりからかかりたいと思います。
 また、何回かのレポートになると思われます。
 なるべく、読者のみなさんを飽きさせないで続けたいと思っています。
 どうぞよろしく。
 今日は時間がないので「予告」でとどめたいと思います。
 まあ、多少娯楽風なところもありますから、こんなふうな思わせ ぶりなところから始めさせていただきます(笑)



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日本歴史 物語①
   本州と九州を隔てる関門海峡は狭い
     しかしここでつくられた歴史は大きい



1023理事長ブログ4

1023理事長ブログ3
バスの車内より見た「関門海峡」と「関門橋(かんもんきょう)」です


 本州と九州を隔てる海峡を、関門海峡といいます。
 しかし、その幅はとても狭いです。600mといいますから、私の家の近くの阿賀野川の、ござれや大橋の辺りの川幅は、1000mありますから、海峡というには、とても狭いと言えます。
 でも、ここで展開された歴史的な出来事としては、大きなものが二つあります。
 一つは、今 NHKテレビでやっている平 清盛に関連することですが、平家一族が滅亡することになった、壇ノ浦の戦いの壇ノ浦はこの付近の海のことです。
 この戦いに勝った源 頼朝は、武家政治を始めましたから、「武家政権の始まり」の地であったと言えます。
 二つ目は、こんな狭い海の海峡なのに、もっとどでかい事件(戦争)がありました。
 それは幕末の頃、日本国内が外国勢力(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)から開国を迫られていた頃、本州側の今は山口県、当時は長州藩といいましたが、この長州藩が攘夷(じょうい:外国勢力を追い払うこと)を実行するとして、1863年この関門海峡を通るイギリスの船を砲撃しました。
 ところが、その「しかえし」として、前記の四国連合が長州を攻撃し、砲台を占拠してしまったという事件(戦争)が起きました。
 これを「馬関戦争」といいます。
 この戦争で、長州藩は惨敗してしまい、以後は方向を大転換して、逆にイギリスに接近し、すすんで外国の文化を取り入れ、軍備の近代化をはかり、明治維新へと歴史はうつります。
 つまり、「武家政権の終焉(しゅうえん)」の元をつくった地となりました。
 こんな狭い海峡が大きな歴史を作った最初と最後の地となったのです。

*ちなみに「馬関」とは、山口県の下関の古称です。


1023理事長ブログ1
「馬関戦争」で使われた大砲が展示されています


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