先週金曜日27日は土用の丑の日でした。
夕方、テレビをつけると、うなぎの値段がこの日、急に下がったとレ
ポートされていました。
どうやら品薄とかで、うなぎが高い高いと報道されているので、消費
者が買わなくなると思った販売側が、丑の日になって売れ残らないよ
うにと2割程度下げたという報道でした。
確かに、今では、うなぎは年中、スーパーで売っていますから、何も
丑の日に、この日だけ高いうなぎを買う必要もないのかと思いました。
そこで、今日は、恥ずかしながら、私が生まれて初めて、うなぎを食
べた日の事を書いてみようと思います。
昭和49年頃だったと思います。
私は、不動産販売の営業社員でした。26歳くらいだと思います。
ある日、旧県庁のあった白山浦の辺りの不動産会社に行っていたと
ころ、ちょうど昼食の時間になったので、そこのよく知っている社長さ
んが、近くのうなぎ屋へ案内して、うなぎの蒲焼をごちそうしてくれまし
た。
うなぎの蒲焼など、知ってはいたものの、実物を皿に出されて、目の
前に置かれ、箸をつけるのも、食べるのも初めてでした。
当時は、うなぎは高級料理で、そのお店も、うなぎの専門店として高
そうな店構えでした。
生まれて初めて、しかも一匹ものを全部食べた味は、得も言われぬ
ほどのおいしさでした。
僕がよほど旨そうに食べていたのか、おごってくれた社長さんは自
分も食べながら満足そうな笑みを終始見せていました。
社長さんは、お金もありそうだったし、会社も近くでしたから、たまに
食べに来ているようでした。
私は当時、なんでもおいしく食べる食べ盛りでしたから、つい、旨さ
のあまり、社長さんに言ってしまいました。
な、なんと、こ、こう言ってしまったのです。
「旨かったです。もう一匹食べてもいいですか?」
と、それまで、上機嫌でいた大様な社長さんが急に不機嫌な、という
か呆れた顔になったのです。
私は「しまった」と思いました。
やはり、その頃は、うなぎの蒲焼などは高級料理でしたし、そのお店
は、庶民が軽く入れる店ではない、高級感がありましたから、うなぎの
蒲焼一匹ものを食べて、あまりにおいしかったからと言って、もう一匹
食べたいなどとは、誰も言わないのだなって思いました。
お酒なら、「もう一本飲めよ」って言ってくれる社長さんも、うなぎは
「もう一匹どうだ」とは言ってくれないのだなと、急に田舎者を露呈して
しまった自分が恥ずかしくなりました。
こんな思い出が、今も思い出されます。
ですから江戸川柳などで、よくうなぎのことで庶民感情が出ている句
に会うと、とても親しみが持てます。
そこで、そんな、いじましい句をここで紹介しようと探してみたのです
が、僕の持っている本では見つかりませんでした。
よくある内容を言いますと次のようなものです。
①うなぎを売る側のお店の人は、売り口上などは必要なく、大いば
りで、ただ、うちわで、うなぎが焼けた匂いを煙とともに、店の前
の道路を通る通行人に吹きかけている・・・というもの。
②買う側の通行人は、煙を吹きかけられて、いまいましいがその
煙がおいしいので、思いっきり空気を吸うだけ吸って、タダでうな
ぎを食べた気分になって素通りするというものです。
ネットでちょっと見たところ、失礼ですが江戸川柳ほどの味わいはあ
りませんが、次の2句がありましたので、申し訳ありませんがお借しま
す。
◆うなぎ屋は煙を食わす粋な奴
◆うなぎ屋の煙が漂い足止まる
以上です。
私は他人のことをいろいろ言っていますが、うなぎを取引先社長さん
からおごってもらって、「もう一匹食べたい」なんて言ったのは、とんだ
田舎者丸出しでしたよね(笑)

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バンコクの観光詐欺師?は大学助教授風!
一昨日あたりから書いている東洋版「オリエント急行」の旅の終着駅
はタイのバンコクですから、今日はバンコクの話をします。
私たちは「遅い組」になっていたのでクアラルンプールを夜9時頃発
同10時半頃バンコク着の飛行機でした。
従って、バンコクの最初の夜は、ホテルのレストランで普通に食べ
て、すぐ寝ました。
バンコクでは2泊する計画でいました。
翌日は、暁の寺や巨大な涅槃仏(ねはんぶつ:仏様が横になってい
る姿)の寺などを見ました。
実はこの涅槃仏の寺には想い出がありました。
今から10年くらい前に友人5人くらいで来た時、1人の友人からバン
コクは初めてなので、ぜひ主要観光ポイントを案内してくれと頼まれま
した。
そこで、2人で涅槃仏の寺や王宮、エメラルド寺院、暁の寺あたりに
行くことにしました。
翌朝、タクシーでまず涅槃仏の寺へ行こうとして、そのあたりでタク
シーを降りたところ、涅槃仏の寺は、敷地は大変広いので長い塀が続
いているばかりで、入口がわかりません。
確か、日曜日の朝だったと思います。人出もまだありませんでした。
遠くの入口を探そうと首を長くして見ていると、一人の中年のタイ人
の男の人が近づいて来ました。
そして、言い慣れたような日本語で話しかけます。
「どこへ行こうとされていますか?」
「涅槃仏の寺です。入口はどっちでしょうか?」
「あ、そこは、今日は日曜日ですからお休みですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうです。そこはお休みですから、私がかわりにメナムの水上ボー
トの貸し切りクルーズをご案内しますよ。今日なら安いですよ」
と、堂々と応対してきます。
見れば、40歳代でブレザーを着て、ループタイをして、なかなか教
養のありそうな、一見、大学の助教授風かなって、思われます。
でも、私は、この男は怪しいと思いました。
なぜならば、バンコクではタクシーの運転手はまるで、英語がしゃべ
れないので通じません。そこで、昨夜、現地ガイドさんから、ホテルに
送ってもらった時に、翌日である今日の私たちの予定を話した上で、
タクシーの運転手に見せるために、行き先をタイ語で書いたメモをもら
っておいたのです。
その時、現地ガイドさんは、ちっとも明日の日曜日は涅槃仏の寺が
休みだなどと言っていませんでした。
もし、今日が休みなら、その時指摘してくれたはずです。
それなのに、この男はその涅槃仏の寺が休みで閉まっていると言
い、他の場所に誘導しようとしています。
そこで私はこの怪しい男を無視して友人を促して、そこを去りまし
た。
ちなみに、私はバンコクなど、タクシーの運転手に英語が通じない街
では泊まったホテルのホテルカードを必ずもらっておきます。出先から
帰る時にタクシーの運転手に見せるためです。
そうでないと、故意か間違いかわかりませんが、とんでもないところ
に連れて行かれることがあるのです。
ところで、この怪しい男のことで、帰国後、日本の旅行ガイドブックで
バンコクの情報を見ていたところ、私が話しかけられた男とそっくりの
人相、風体の男が同じ場所で、日本人を相手に同様のことを言って詐
欺を働いているとして、「注意すべし」と出ていました。
やっぱり、アイツだと思いました。
みなさん、同様の機会がある時には注意しましょう。
日本人は、とにかく人が良いので外国では「軽く」騙されると言われ
ています。
昔、私が中国に初めて旅行した時、現地ガイドさんが「厳重注意」し
ていました。
「みなさんは、この国に親戚や知り合いとかは、誰もいないんでしょ。
だから、初めて会ったこの国の人が親切に何かしてあげましょうと言
っても、決して信用してはいけません。この国の人で、知らないよその
国の人に、親切にしてあげようなんていう人は一人もいません。みん
な自分の儲けのために言っているんです。決して話しにのってはいけ
ません。必ず騙されますから。」
残念ですが、日本人への警告としては、確かに「言い得ている」と言
えます。

ホテルの部屋から見たメナム。川幅の狭い川です。

涅槃仏の頭部分です。

足から頭を見た涅槃仏です。

涅槃仏 足の裏です。

暁の寺です。
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事件発生!? いきなり引き返す国際列車
私は海外旅行が好きなので、よく出かけていました。
旅先で、いろいろハプニングや、ちょっとした事故などに遭ったこと
がありました。
でも、たいていは団体旅行だったりで、日本からの添乗員さんがい
たり、現地ガイドさんがいたりしましたので、それほど慌てることはあ
りませんでした。
でも、この時ばかりは慌てました。
事の次第はこうです。
私はかねてより、アガサ・クリスティの推理小説にある、「オリエント
急行」に興味を持っていました。
この小説の列車は、ロンドンからイスタンブールまでの豪華列車
の旅です。
この列車に乗る人たちは、主にヨーロッパ人で、定年をむかえて無
事リタイアした人や、高齢で誕生日をむかえた人や、これまた、高齢
で結婚記念日をむかえた人たちだそうです。
人生のメモリアル的な旅行だということです。
一方、東洋版「オリエント急行」がまったく同じ型式であることがわか
りました。
それは、シンガポール・バンコク間を往復するというものです。
そこで、私たち夫婦が参加したのは、シンガポールからバンコクまで
の2泊3日の列車の旅です。
客室は個室でホテルのようになっています。
でも、値段次第ということはあるでしょうが、狭いです。
私たちの部屋は6帖くらいの広さでベッドが2つあります。
他に1坪くらいのシャワールームとトイレ、洗面台、クローゼットがあ
ります。
それでも2泊3日ですから、私たちにとってはじゅうぶんと思いまし
た。
南国の景色を眺めたり、夜には素敵なレストランでディナーを楽しむ
ことができます。
一種独特のムードがあります。
客はほとんどがヨーロッパ人です。やはり高齢者が多いようです。
どこかの社長さんが、あるいは、それをリタイアした人が夫婦で来て
いるようです。
なぜ、ヨーロッパ人たちが多いかと言うと、彼らは、この第二次世界
大戦の時に、シンガポールやインドシナ半島、タイなどに戦争の兵士
や国策で進駐した会社の社員として来ていた人たちのようです。
私たち以外の日本人は見当たりません。
私たち2人だけが日本人だと思っていました。
でも、不安感はありませんでした。
列車に乗ってしまえば、バンコクに着くまで所定のスケジュールで進
むことがわかっていたからです。
昼すぎ頃、シンガポールを出発して最初の列車の夜が過ぎました。
2日目は、列車のデッキのようなところに出て外の風景を眺めたり、
お茶会に出たり、夜はディナーに出たりします。
私たちは、ディナーは正装でということでしたので、着物を持って行
き、2人で着物姿で出ました。
ヨーロッパ人たちは、珍しかったのか、よく話しかけてくれました。
2泊した日の午後はペナン島にチャーターバスで寄り道をして、昼食
を食べました。
食後、列車に帰って、さて、今夕5時頃にはバンコクに到着と思って
いたところ、急に車内放送が始まりました。
英語でなにやら説明しているようですが、私の英語力ではすんなり
理解ができません。
軽い気持ちで聞き流していると、そのうち列車が進行方向と逆の方
向に走っていることに気が付きました。
さっきの放送のことと関係があったようです。
少し異常な雰囲気がしてきました。
この辺りは昔、ゲリラが出たこともあった地域です。
政変や内乱、地震、津波などの自然災害などもあります。
私は部屋を出て列車の従業員を探そうとしたところ、ちょうど現地人
の従業員が来ました。
ちょっと異変があったような顔つきをしています。
表情ですぐわかりました。
この従業員は、きっと英語は話せるのでしょうが、私はこの場合、日
本語で詳しく説明を受けたかったので、英語で「日本語を話せるスタッ
フを呼んでください」と言いました。(これくらいは、私はだいたい話せ
ます)
従業員は、承知して、数分後には日本語の話せるスタッフがやって
来ました。
私は安心して事情を聞くことができました。
それによると、タイ国境のあたりで、土砂崩れがあって、バンコクに
行けなくなったので、急きょ、この列車はマレーシアの首都クアラルン
プールまで戻るとのことです。
そこから5つくらいのグループに別れて、バンコクまで飛行機で行くと
言います。
飛行機の席のとれ具合で、早く飛べる組と遅い組ができると言いま
す。
遅い組は、夜9時頃のフライトになるだろうと言います。
遅い組の人たちには、旅行会社の方でクアラルンプール観光を提
供してくれるそうです。
だいたい以上のことなどを説明してくれました。
この内容では、きっと私の英語力では簡単には理解できなかったろ
うと思いましたし、聞き違いがあるのではないかと不安になることもあ
ったと思います。
結局、私の英語なんて予期できる場面、たとえば、ホテルのチェック
インだとか、乗り物に乗る時とか、物を買う時とかには通じるかも知れ
ませんが、このような予期できない緊急の有事の際には、何にもなら
ないものだと、心底知らされることとなりました。
外国でのことですから、一刻を争う命がけの時もあります。
深刻に考えれば暗澹(あんたん)とした気持ちになります。
でも、あれから6ケ月たつとまたどこか外国へ行ってみようかという
気持ちになっています。
ほんとに「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ですね(笑)

列車最後尾から撮影

ディナーの時の私たち夫婦です

列車の中のディナー風景です

クアラルンプールのツインタワー、一時期世界最高峰でした

クアラルンプール市内
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公園の中にあるような美しい街 シンガポール
昨日のブログの中でシンガポールの街の名前の由来を述べました
が、まだ確証が持てるほどの資料が見つかっていません。
要は、ポールはポート(port=港)からきているので、シンガがライオ
ンからきていることを証明したかったわけです。
それでこそ、マーライオン(マーメイドライオン)のライオンの登場の
理由が生じることになりますから。
私は、どこかの文献でシンガが古い言葉でライオンで、昔はライオ
ンがウロチョロしていたような、小さな漁村だったと見たわけでしたか
ら、それを探していますが、しかし、それはそれとしてシンガポールの
ことをもっと話してみたいと思います。
まず、私は40年前に初めてシンガポールに行きました。
その頃は日本はまだ、1ドル360円の時代でした。海外旅行に行く
というと、めずらしくてご近所や親戚が餞別を持ってくるような時代で
した。
そこで不思議なこととして目に映ったのは、当時、シンガポールで
は、夜タクシーに乗ると街灯の明るい街なかでは、車のライトを消して
おいて、街からはずれて街灯のない暗い道に行くと初めてライトを点
灯するのです。
これを見て、私は、この国では、電灯をつけることがもったいなくて、
家ではもちろん車であっても、やはり明るくてライトのいらない街中で
は点灯しないのだと感じました。
その頃は今の節電とはまた違った、お金がもったいないという観点
から、電気を節約していました。
でも、その頃からも、シンガポールの街はきれいでした。それこそゴ
ミひとつ落ちていませんでした。
それもそのはず、シンガポールでは、ゴミを捨てたら、罰金を取られ
ると決まっていたということでした。
また、街中の街路樹や草木までが庭木のように手入れがされてい
て、まるで街中が公園で、街の建物は特に官公庁などは、公園の中
にすべて建っていると思われるほどでした。公園の中にある街という
ほど、強く印象に残りました。
それが今年の2月に行った時には、街なかが超近代的に洗練され
ていたのでびっくりしました。
高層ビル群が林立していました。
おまけに治安も良いのです。
真夜中でも観光客が1人で歩いても良いなどと現地ガイドさんに言
われるのは、外国ではここが初めてでした。
シンガポールの夜の街は、とても洗練されていて、日本人のカップ
ルがロマンチックに散策するには、世界でも一番の街だと思いまし
た。
日本人の男女が歩いていたら、親密度が増すこと100%です。
ぜひデートに出かけましょう。
昔と違って、食事のレベルも一流です。
世界の美食が集まっています。
これでは東京の若い人たちが、羽田から金曜の夜に出発して、月曜
の早朝に帰国して、そのまま会社に出社するというのもうなずける気
がしました。
私がこの度、旅行したのはデートではなくて、夫婦で東洋版「オリエ
ント急行」に乗るためでした。
シンガポールからタイのバンコクまで車中、2泊3日で部屋付きの
「ホテル列車」の旅なのです。
ところが今日は、書ききれませんがとんだハプニングもあったので
す。
私が経験した最も大きな外国でのハプニングでした。
このことについては、また明日、書いてみたいと思います。
何か引き延ばすみたいでゴメンなさい(笑)
今日は時間がなくなったので。

夜の船のホテルです。下の3棟がホテル棟です。

煙?水蒸気?の魔術、幻想の映像(実際に人がいるわけではありません)

昼間の高層ビル郡です。

超高級ホテルのラッフルズホテルです。
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シンガポール「マーライオン」って何?
今日は、シンガポールのマーライオンについて書こうと思っていまし
た。
実は私はこんな話を「仕入れて」いたのです。
それは、シンガポールの「シンガ」は古い言葉でライオンのことで、
「ポール」は港である・・・と。
昔、ヨーロッパ人がこの島を「発見」した時は、小さな漁村で、付近に
はライオンがうろうろしていた。
そこでヨーロッパ人がここをシンガポールと呼んだ。
マーライオンはマーメイドライオンという意味で、頭はライオン、下の
「下半身」は人魚である・・・。
ということでしたが、調べてみると、ちょっと違うようです。
そこで、明日また調べ直してみたいと思います。
ブログを2日ほど休んでいたので、今日は休みたくないので、一応こ
こまで説明をしておきたいと思いました。
今日はこんなところで・・・。 よろしくお願いします。
今年2月に私は、シンガポールに行って来ましたので、その時の写
真を添えました。

マーライオンです。

船の形のホテルです。

きらびやかなシンガポールの夜景。とても美しい町です。
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ブログ担当が変わりました。
準備の都合上、本日のブログは休みます。
明日からブログ始めます。
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後世の「詩人」 杜牧、美人姉妹を追想す
昨日のブログで、私が詩人 杜牧を愛好するあまり、次回は杜牧の
「赤壁」の詩を紹介しましょう、と言ってしまいました。
しかし、漢詩は当然のことながら漢字が並んでいるばかりで、おもし
ろそうではありません、見ただけで難しそうです。
さらに文法も日本語式ではなく、英文式です。
例えば、「私は 学校へ 行く」というのは、「私は 行く 学校へ」と書き
ます。
でも、漢字には一文字一文字意味がたくさん込められています。
たった一文字でも、その意味を日本語で説明しようとしたら、長々と
した説明になることがあります。
しかし、慣れてしまえば、ふくよかな味わいが出て、親しめるのでは
ないかと思われます。(もちろん、私などはその域に達していません
が)
先に杜牧の「赤壁」を説明しておきますと、このようになります。
杜牧が赤壁の地を訪れたのは、赤壁の戦いの600年くらい後のこと
でした。
もはや戦争などなかったかのような風景をしています。
ところが、砂にうずもれた中から錆びた鉄のかたまりのようなものが
出てきました。
それを洗って、磨いてみると、それはまさしく鉄製の矛のようです。
しかも、折れています。
その様子から、戦いに使われたものだと推測できます。
とすれば、この矛は、その昔、ここに展開されたという、「赤壁の戦
い」のものに違いない、そのすさまじかった戦いの名残の証拠となる
ものです。
この時、初めて、600年もの昔の戦いが現実のものとなります。
だとすると、あの時・・・冬の北風の時期に運よく逆の東風が周瑜の
ために吹いてくれなかったら(呉は負けてしまっていただろうから)、周
瑜の妻(小喬)はその姉(大喬)とともに、勝利した曹操に魏の国に連
れ去られてしまっていただろう。
現に曹操は、赤壁の戦いが終わった後、本国の魏に帰り、その都に
「銅雀台」という華麗な御殿を建てて、大勢の美女をはべらし、宴楽を
繰り返していましたから、もし、美人姉妹の「二喬」を得ていたら、二人
共 曹操の寵妾(ちょうしょう)となって、この館に留め置かされただろ
う。
「周瑜のために」と言っているのは、赤壁の戦いにおいて呉軍で一
番活躍したのは大都督として任ぜられた周瑜でした。
呉が負ければ、当然に絶世の美女として有名だった彼の妻小喬も、
姉の大喬も「戦利品」として敵将の手に渡るのは当然のことでしたか
ら、とりわけ「周瑜のために」と言っているわけです。
詩の構成としては、杜牧は頭脳明晰な人でしたから、まず、赤壁の
戦いが現実にあったことを証拠を示した上で認めさせ、その上で、詩
人 杜牧の「想像」に真実味を持たせ、赤壁の戦いとそれを巡る曹操
の野望、周瑜と小喬の「危機」の帰趨(きすう)やいかに、という「物
語性」に興味を添え、詩情にふくらみを持たせているのです。
以上、これは私なりの解説です。
あとは、岩波書店「杜牧詩選」(松浦友久、植木久行 編訳)から、詩
と書下文(かきくだしぶん:漢文を日本語の語順にしたがって読み、仮
名交じりに改めた文)と説明文をそのまま転載しておきます。

※やっぱり難しかったですか?
書下文を声をあげて何回も読み、暗記してしまうことが大切です。
この杜牧の「赤壁」は三行目と四行目が特に杜牧の「味わい」です。
私が大好きなフレーズです。
自分がふくよかになった気がしますよ(笑)
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・・・曹操が狙う? 江東の美人姉妹
江東というのは、長江(揚子江)の東側の地方すなわち、楚(そ)のこ
とを言います。
「赤壁」を戦った呉国の中心人物は、もちろん、孫権です。
そして、もう一人います、それは、赤壁の戦いに当って、大都督に任
ぜられた周瑜(しゅうゆ)です。
孫権には兄がいました。
孫策といいます。
この孫策は、大人物であったようです。
「江東を平定した呉の小覇王」とされていましたが、若くして病死しま
した。
その兄の偉業を継いだのが弟の孫権でした。
ですから、曹操が攻めてきた「赤壁」の時点では、孫権の基盤はま
だ盤石ではありませんでした。
国難に際して、国内をまとめるのに大変苦労した様子が書かれてい
ます。
孫権より年長の周瑜は、もともと兄の孫策と仲が良かったようです。
江東平定の折、喬(きょう)という名家に「絶世の」美人姉妹がいまし
た。
姉は大喬、妹は小喬と「史書」「演義」ともに書かれています。(後で
書く機会があるかもしれませんが、このあたりの呼び方はとっても中
国的だと思います)
ともかく、世間の評判にあがるほどですから、二人とも「名代」の美
人だったのでしょう。
そして、姉の大喬は孫策の妻に、妹の小喬は周瑜の妻となりまし
た。
このあたりの記述は江東平定の折、勝者の将軍孫策と周瑜が「戦
利品」として、この美人姉妹を分かち合ったかのように書かれていま
す。
大喬は孫策の正妻ではありませんでした。
映画「レッドクリフ」には小喬が登場します。
この役を演じたのは、台湾出身の有名な美人女優さんだったという
ことです。
「レッドクリフ」は「演義」をもとにして、それをさらに脚色しているよう
です。
すなわち、曹操の楚進出の目的は、実はこの大喬、小喬の美人姉
妹を獲得せんがためのものであったというくらい、強調されていまし
た。
確かに曹操は、「英雄色を好む」を地でいくような逸話が他にもあり
ますから、このような話の筋書きも十分可能だと思います。
後世の唐の時代の「詩人」杜牧(とぼく)もこれに便乗して、彼特有の
奔放自在な感覚で「赤壁」の詩を書いています。
実は私は、杜牧が好きなので、次回は、この杜牧の「赤壁」の詩を紹
介しましょう。
杜牧は「乱世の英雄」曹操とは違って、「平冶の能臣」を地でいくよう
な「政府高官」でいました。
事実、彼は難しいことで有名な、中国の官吏登用試験である科挙
(かきょ)に若くして合格したほどの明晰な頭脳の持ち主でした。
また、大胆にも、誰はばかることなしに、酒と女と詩作をこよなく愛
し、どこへ行くにも美女と酒樽と一緒というほどの人でした。
このような点を見ると、きっと杜牧は、乱世を思うがままに生きた曹操
を敬慕(けいぼ:うやまいしたうこと)の念で見ていたのではないかと、
私は勝手ながら歴史ロマンのひとつとして想像しています。(笑)
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本日もブログお休みします。
明日のブログは、
『世界歴史物語② 三国志「赤壁余話」
・・・江東に美人姉妹二喬あり』
です。お楽しみに?(笑)
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明日をお楽しみに(笑)
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おなじみ「三国志」 赤壁の戦い

このブログは土日を除いて毎日書いています。
ブログのレパートリーを広げるため、世界や日本の「歴史物語」を開
設してみたいと思います。
今日の三国志を推薦したのは、私のブログ担当者です。
日本の若い女性たちが三国志など中国歴史古典に興味を持ってい
ることを私は不思議に思います。
いや、私はそれに反対だというのではなくて、書店に行って覗いて
見ると、若い女性を対象とした、写真の多いファッション雑誌を購入す
る人たちが、漢字だらけのような、中国モノに人気があるなどと想像
できないからです。
でも、「赤壁の戦い」は「レッドクリフ」の題名で映画になり、日本では
女性が大勢出掛けたようでした。
三国志が好きな、「三国志オジさん」の私としては、でも、最初にウン
チクとして次のことを言っておかなければなりません。
日本人が「三国志」として愛好しているのは、中国の史書、すなわち
後晋(こうしん)の陳寿(ちんじゅ)が著した「三国志」の方ではなくて、
後世の明代の羅貫中(らかんちゅう)という「小説家」が書いた、いわ
ば三国志「物語」だということです。
それは「三国志演義(さんごくしえんぎ)」というものです。「演義」とい
うのは、「物語」という意味です。
史実に虚構を加えて脚色して、おもしろくしたものです。
だから、とってもおもしろいのです。(笑)
花も実もあって、血も涙もたっぷりあります。感動ものです。
史書「三国志」にはない出来事や人物が出てきます。
前置きがとっても長くなりましたが、では始めましょう。
時は 後漢末の西暦208年の冬。
魏の曹操は戦乱の中国全土を統一せんと、長江(揚子江)を超え
て、楚の呉国に攻め入らんとします。
そうはさせじと呉の孫権と曹操の「宿敵」劉備は連合軍を組んでこれ
を阻止しようとします。
曹操20万の大軍(演義では80万)に対して、劉備孫権連合軍はわ
ずか3万です。
長江を境にして、北(北西)岸と南(東南)岸にそれぞれ布陣して、対
決の時を待ちます。
勝敗は一夜にして決しました。
わずか三万の劉備孫権連合軍が勝ったのです。
勝因は「風」でした。
季節外れの東南風が吹いて、これに乗じた劉備孫権連合軍が曹操
軍に壊滅的な打撃を与え、「常勝」曹操は命からがら魏国に逃げ帰り
ました。
以後、これほど大掛かりな戦はなくなりました。
曹操の威力が鈍ったからです。
ところで、この一戦を私流に解説すると次のようになります。
まず、長江を(大きさは比べ物になりませんが)阿賀野川だとして、
北西の新潟側に魏軍、曹操が布陣します。
対して、東南の豊栄側に劉備孫権連合軍が対峙(たいじ)します。
冬なら、新潟にも北西風が毎日吹きます。
新潟にはまずないと思うのですが、この赤壁の地ではごく稀に反対
側から東南風が吹くことがあるというのです。
新潟では、この東南風を「だしの風」といいます。
だいたい早春に吹きます。
この「だしの風」が俗に「北風」と言われる冬の風の最中に、逆に豊
栄側から新潟側に吹くなんて、(それも強風になって)新潟の人なら誰
も想像できませんよね。
それがこの赤壁ではあったのです。
その風に乗って、劉備孫権連合軍は燃えやすい枯れ草や油を積ん
だ、たくさんの舟で曹操軍に火攻めの大攻撃をかけました。
曹操軍のおびただしいほどのたくさんの舟は、風で動かないように
舟ごとに鎖で繋がれていたために、身動きが取れず、焼かれてしまい
ました。
ともかく結果は、劉備孫権連合軍が乾坤一擲(けんこんいってき:運
命をかけて大勝負すること)の勝利でした。
むろん、その背後には、それぞれ「遠大な」謀略作戦がありました。
これについては「演義」におもしろく書かれています。
「三国志」のヒーロー諸葛孔明が神がかり的に活躍します。
一瞬の勝利にも、多年の努力が大切だということが学ばれます。
今日は前置きがあって長くなりましたが、中国古典は日本の多くの
人が人生の座右の書としているところですから、次回、もっとおもしろく
書いてみたいと思います(笑)
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「サラリーマン川柳」は、ある生命保険会社が販促のひとつとして始
めたものが大変好評で、徐々に盛り上がって、これが今日のような年
中行事のようになったと、私は理解しています。
もともと、川柳の始まりは、庶民の世相批判であったり、暮らしの中
の喜怒哀楽を辛口で茶化したりするものでした。
江戸時代も川柳は盛んであったようで、おもしろいものがたくさん残
っています。
それに負けない隆盛を持つかのようなサラリーマン川柳はたいした
ものだと思います。
今日、配布された小冊子にもたくさんの「優秀作品」があります。
「ベストワン」の第一位は
◆「宝くじ 当たれば辞める」が 合言葉
事務員A
読み人、「事務員A」というところもおもしろいですね。
他に
◆女子会と 聴いて覗けば 六十代
◆妻が言う 「承知しました」 聞いてみたい
以上の二句は、現代の高齢女性の旺盛な活動欲、また、家庭内で
もサラリーマン夫は虐げられて?いる様子がわかります。
私が今日の特徴として注目したのは、「年配サラリーマンお父さん」
がやはり、笑いの対象にされている点です。
「お父さん」は真面目に仕事をこなし、勤勉な生活ぶりをしています。
でも、横文字には弱いし、新規のツールにも疎(うと)いです。
◆EXCELを エグザイルと 読む部長
◆図書館で FaceBookを さがす父
ちょっとお気の毒ですね。
◆おとうさん 胃酸でるけど 遺産なし
胃酸はストレスからです。
ストレス溜めながら一生働いても「遺産なし」なんて、妻や子供に言
われたら、もう、「かわいそう」ですね。
◆頼んでも “こだまでしょうか”と かわす妻
◆父に聞き その後必ず 母に聞く
でも、これらの句の作者は案外、当の「お父さん」本人であったりす
るかもしれません。
これも川柳的だと思います。
ところで私も一句作りたいものがあります。
昨今のデジタル機器の操作ツールの進歩には、「お父さん」である
理事長の私はついていけません。
パソコンを前にして、お手上げ状態によくなります。
そんな時、理事長室にお茶などを持ってきてくれた若い事務員嬢に
平身低頭(へいしんていとう:へりくだって恐縮するさま)、教えを乞い
ます。
外では偉そうに訓示を垂れていても、理事長室では立場は逆転、お
助けをいただくのは私の方です。
パソコンに向かった理事長のイスも明け渡しです。
その図はちょっと室外の人には見せたくありません(笑)
これを私自身が川柳にしたいのですが、なかなか作品になりませ
ん。
「サラリーンマン川柳」を見るたび、投稿しているみなさんは偉大だ
と思います。
理事長なんてデジタルできないし、川柳できないし、無用の長物でし
ょうか(笑)

(理事長撮影)
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「ストレス恐るべし」という印象が強く残ったことがありました。
それは、私がまだ若い頃、当時、政財界に通じて、強力な影響力を
持つ人がいました。
この人にかかったら、意にならぬものはないと思われた人でした。
大会社の社長でもありました。
ところが、ある日突然、その人の死亡記事が出ました。
死因は、ガンなどではなくて、ストレスによる心因性の病気だと書か
れてありました。
ストレスが死因にもなるのかと、その時思いました。
その後、ストレスについて注目度が広がり、一般にも理解が進んだ
ように思います。
それとは別に、その人の生活習慣が高じて、病気になるという、「生
活習慣病」という病気も私にはわかってきました。
そして、それらの大元にあるのがストレスの蓄積であって、ストレス
こそが万病の元、という専門家もいるようです。
しかし、ストレスとは、例えば「生体的」には生命活動における、新陳
代謝のような汗や尿といった「劣化物」「廃棄物」の類のものであって、
量的に蓄積されるものかと私は理解します。
さらに「精神的」なストレスにおいては、その蓄積の量や強度が個人
的に千差万別で、ある人には何倍にも感じられたり、また、ある人に
は微塵もかんじられない・・・というものかと、私は素人ながらに考えま
す。
そこでストレスとどう付き合うかが、人生を生き抜く重要なポイントと
いうことができると思います。
ともかく、「ストレスが溜まる・・・」とかと表現しますから、それなら、
溜めてから一挙に抜くか、溜まらないうちに少しずつ発散させる
か・・・、ということになります。
ともかく、自分で意識した対処法が必要だと思います。(但し、このよ
うに合理的に分かっている人には最初からストレスの蓄積などないの
であって、逆にストレスで死因を作るような人に、どんなにものを言っ
ても無駄なのだという意見もあるでしょう)
私自身は、ストレスを溜める方なので、ある時、一挙に抜いて「リセッ
ト」することを考えます。
私は、お酒が好きですから、やはり、お酒の助けを借ります。
かといって私は、「やけ酒」を飲んだこともないし、人の悪口を言いな
がら、「ぐちり酒」「いやみ酒」を飲んだこともありません。
私は一人静かに酒と向き合いながら飲むか、肝胆相照らす仲(かん
たんあいてらすなか:互いに心の底まで打ち明けて交わる、親しい
仲)の友人少人数で、やはり、静かに飲みます。
私にとってお酒は、澱(おり:底にたまったカス)のようになったストレ
スを溶かして、出してくれる溶解液のようなものです。
酔うほどに飲むうちにすぐ眠ってしまい、目が覚めた朝には爽やか
に「リセット」されています。
「酒は涙か溜息か こころのうさの 捨てどころ・・・」
「酒よこころが あるならば 胸の悩みを 消してくれ・・・」
歌にあるように、先輩たちは、様々な飲み方をしたようです。
ともかくストレスは「排出物」と私は考えますので、溜めてから出す
か、溜めないで出すか、いずれかだと思っています。
さて、みなさんは、どのようなストレス解消法を持っておられるでしょ
うか?
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ヨーロッパ(プラハ)の温泉は男女混浴
・・・ただし水着着用

(「百塔の街」プラハ:週刊地球旅行より転用)

(プラハの観光名所カレル橋:週刊地球旅行より転用)
私がプラハを訪れたのは今から20年近く前のことだったと思います。
その頃のプラハは日本人にはあまりなじみのない、よく知られてい
ない街でした。
その理由は第二次世界大戦後チェコとして、ソ連に組み込まれ、「鉄
のカーテン」で閉じられていたせいだと思います。
とにかく、情報、知識がありませんでした。
ところが行ってみると、「百塔の街」と呼ばれるほど、立派なゴシック
調の建造物が多いのです。
それもそのはず、プラハは14世紀ころからでしょうか、神聖ローマ帝
国の首都としてパリに次ぐ華やかな街だったそうです。
「黄金の街」と呼ばれたそうです。
さて、その古都の街に温泉があるというので、私と友人のAさん(男
性)「二人組」は、「混浴」だというので(笑)は興味津津で行ってみるこ
とにしました。
ところが、そこは、温泉といっても屋内のプールのような感じでした。
まず、第一にお湯の温度が低く、ぬるいのです。
第二に男女「混浴」といいますが、みなさん水着を着用しています。
第三に湯に浸って頭にタオルなどを載せて、「アア、いい湯だなあ」
っていう人は誰もいなくて、湯の中を歩いたり、泳ぐような素振りの人
もいます。
あとはプールの縁に腰をおろすような感じで、足などを浸して、談笑
したりしています。
ヨーロッパでは、温泉の出るところは、たいてい保養地になっている
ようですが、ここには特に体の悪そうな人はいなくて、若い女性や中
年の女性、子供たちが目立ちました。
ところで、私は事前にこの「混浴」、いや、「温泉」のことを知っていた
ので、日本から水着を持って行きました。
私の友人は必ずそこに行くかどうか疑問だったらしく、水着を持って
きていませんでした。
男用の海水パンツなど、その場の売店で買っても知れています。
ところが、友人は本物の下着パンツで登場したのです。
おろしたてのハデハデ模様入りのパンツですから、水着と言えば水
着のように見えます。
彼は、ドボンと温泉に飛び込んで、「お湯の中に入ってしまえば、わ
からんわい」というような涼しい顔で若い女性たちなどを見やっていま
す。
この時私は、「この人は大物だぁ」と感心(?)しました(笑)
ヨーロッパには、有名温泉がいくつかあるようですが、すべて水着
着用だそうです。
実は、幕末の頃、日本にやってきた西欧人は、日本人の正真正
銘?の男女混浴を見て、ビックリしたそうです。
こんなに文化的に高いレベルの日本人が「なぜ?なぜ?」と不思議
に思ったと本国に報告していたそうです。
さて、しからば全世界の「混浴事情」はどうなっているのでしょうか。
ヒマな時に調べてみたいと思います(笑)
・・・何か今日は、かなわぬ「混浴」にこだわってしまったみたいです
ね(笑)
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私は2002年ころ、介護用のお風呂を開発しました。
一部分の機能は「発明」になりました。
この頃は、まさに私が言うところの「明治2年」ですから、文明開
花・・・「介護」が2000年からの「オープンレース」とすれば、草創期で
す。
様々な「発明」や「開発」があったと思います。
私は、「介護」の重要課題である、入浴に着目し、被介護者(入浴介
護を受ける人)をベッドからお風呂場へ連れていくのではなく、お風呂
をベッドの脇に持ってきて、お風呂に入れるという、「画期的」な提案を
考えました。
そしてこれを重要な「セールスポイント」として、その設備をするとし
た、高齢者分譲マンションを、「介護付終身対応型マンション」と銘打
ち、新潟駅前に13階建てビルを建てて、販売しました。
この分譲マンションは、この風呂のおかげかどうかは別にして、売れ
行きは好調でした。
この発明の原点となったのは、私の子供のころの体験でした。
私は子供の頃、阿賀野川の下流に育ちましたから、夏には阿賀野
川の砂州(さす:砂が堆積した砂島)で遊びました。
砂を掘って、お風呂状にして、水を引き込むと、夏の日を受けて水は
お湯のように温かくなりました。
ここに仰向けに寝転んで、砂を枕に空を見ながら入浴気分に浸りま
した。
仰向けに寝ますから、人型に砂で形を作りました。
人型に足や手を伸ばすと、体の姿勢が楽になります。
それがとても気持ちよく、「楽ちん、楽ちん」と思いました。
人型にして、仰向けにお風呂に入ることは、普通のお風呂ではあり
ませんが、こうして「お湯」に浸ると、浮力が生じますから、姿勢として
も気分的にも楽になることを発見しました。
この体験を思い起こして、「介楽」を発明しました。
自分では自由のきかない重介護の「被介護者」から楽な姿勢で、も
う十分というまで、しかも自室でお風呂に浸かってほしいと思ったから
です。
そして販売を促進するため、パンフレットとビデオテープを作りまし
た。
常陽会のホームページにも 介護用ルームバス”介楽” が掲載され
ていますので、ご覧ください。
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「介護憲章」というのは、文字の画数ほど難しい意味ではありませ
ん。
常陽会職員のみなさんが介護を行うに当たって、ひとつの原則的な
心構えの確認として、また、目指す指針として、自らと公に対して宣言
するとしたものです。
そして、それは理事長として私の「介護」に対する「思い」であり、「願
い」であります。
その内容は、決して難しいものではありません。
「極めて」「簡単」なものです。
介護を行うに当たっては、「スキル」や「理論」や「技術」などよりも、
介護をする人の心映え、気立て、気の持ちようが一番大切だと、あえ
て言っているのです。
それは具体的には、自分の家族としての、おじいちゃん、おばあち
ゃんがいたら、やってあげる、やってあげたい、やってあげようとする
介護を、施設で施そうということなのです。
日本は、いまから67年前に世界的な規模の戦争に負けました。
その戦争は、歴史的には、「第二次世界大戦」であり、また、日本の
「対戦国」アメリカとの主要な「戦場」となったのは太平洋でしたから、
「太平洋戦争」とも呼ばれました。
さらに、日本の戦術的な戦争範囲となったのは、東アジアでしたか
ら、「大東亜戦争」とも呼ばれました。
「戦争同盟国」のドイツ、イタリアが敗戦した時点で、日本は世界と
戦いました。
その結果は日本の無条件降伏というものでした。
日本の戦死者は軍人軍属で230万人、民間人80万人でした。
広島、長崎には人類始まって初の原子爆弾まで落とされました。
東京は焼け野原になり、全国主要都市もアメリカ軍の爆撃にさらさ
れました。
多大な被害を受けました。
もはや、再起不能かと思われたなかから、日本は復興を果たしまし
た。
例えば、今、私たちの身の回りにあるインフラは主要なものはほと
んど戦後に作られたものです。
新幹線、高速自動車道、空港、橋、主要道路、などなど、数えたらキ
リがありません。
そして、これらを建設したのはすべて今現在のお年寄りの皆さんで
す。
67年前に0歳であった人でも今は67歳です。
それ以上の高齢者の方々はすべての人が日本復興の功労者で
す。
それこそ、食べるものも食べないで、子供の為に使ったり、万一の為
の「蓄え」にしました。(ちなみに日本人の国民総資産は1,400兆円と
も言われ、今やダントツの世界一です。 そして、この80%は60歳以
上の高齢者が持っていると言われています。)
今の若い世代の皆さんは、世界一恵まれている世代と言って良いで
しょう。
どの子もどの子もみんな、昔で言えばお金持ちのお坊ちゃんであ
り、お嬢ちゃんのようです。
まるで「蝶(ちょう)よ、花よ【子をいつくしみ、愛するさま】」の育てら
れ方をして、高校を卒業して就職をすれば、みんなが車を1台ずつ買
って、通勤します。
こんな国は世界にありません。
「衣食足りて礼節を知る」などという言葉も今や死語となった感じが
します。(逆説的に言えば、衣食余って礼節を知らず)(笑)
でも、こんなにも豊かな国を作ってくれたのは、実は今のお年寄りで
す。
自分の家におじいちゃんや、おばあちゃんがいなくとも、社会にいる
おじいちゃん、おばあちゃんは、社会の構成上から見れば、本当は皆
さんのおじいちゃん、おばあちゃんなのです。
この人たちの苦労の上に、現在の私たちの生活の幸せがあるので
す。
このように考えれば、お年寄りのみなさんに感謝しないわけにはい
きません。敬愛の気持ちを持たないわけにはいきません。
「介護憲章」にあるように、今、私たちが介護の仕事に働いていられ
ることに感謝しながら、この仕事を精一杯やらせていただきましょう。
これこそが、理事長として私の「介護」に対する「思い」であり、「願
い」なのです。
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常陽会では大勢のボランティアさんからのお手伝いをいただいてい
ます。
私が福祉法人を始めた2000年頃から増え始めて、2008年頃には
100人にも達していました。
当初は、こちらからの「募集」ではなく、ボランティアさんからの「お手
伝い」の「申し入れ」からでした。
私は、ボランティアさんからの申し入れを聞いて、大変ありがたいこ
とだと思いました。
その理由は、第一にどんな職業であろと無償の労働の「申し入れ」
などということは「ない」はずなのです。
これが「ある」ということは、当時としては、「介護」の仕事に「尊さ」を
感じて、「奉仕」の気持ちで参加したいということだと思いました。
このような人たちにとって、もとより、労働の対価を求めようという気
持ちはない、ということです。
第二には、ボランティアの皆さんは、めいめい、ボランティアを通じ
てご自分の健康や、気持ちの満足に配慮されながら、身心の安らぎを
求めておられるのだとも考えられました。
そのように、ボランティアさんの負担にならない形で、その援助を受
けられるなら、こちらからも積極的にそれをお受けしていこう、という気
持ちになりました。
さらに、私には次のような点で、常陽会の施設などの介護の現場に
他人の目、お客様からの目線を入れてみようという気持ちがありまし
た。
それは、それまでの介護の現場は100%公開できない、「陰湿」なも
のがあると、あるに違いないという、今日からでは考えられない事で
すが、当時はまだあったように思われました。
それは、介護職員による入居者などに対する「いじめ」、「虐待」など
でした。
これは、当時の重要な、この「業界」が解決すべき課題であるとされ
ていました。(これは、現在では奇異に感じられるかもしれませんが、
現実には存在したことです。この間の様相は、私の「鶏鳴(けいめ
い)」の「設立の趣旨」の中、「実は劣悪であった、措置制度のもとでの
公的サービス?」に2000年の時点で書かれています。)
そこで私は理事長として、その当時としても、もし常陽会に少しでも
その片鱗(へんりん)があるなら、ボランティアとしての外部の目に参
加してもらうことによって、解消の一助(いちじょ)としたい、と思ったこ
とは事実でした。
つまり、100%開かれた現場を目指すということです。
その次のこととして、介護の現場に働く人たちにとって、大まかに言
えば、「スキル」の向上を目指す一助にしたいというのもありました。
前述したように、ボランティアさんの「外部の目」は「常識の目」であ
り、世間一般の「レベル」でもありますから、大方のボランティアの皆さ
んは、現場の職員よりも社会の先輩であり、経験を積まれておられる
と思いましたから、常陽会の職員の皆さんが、「動きながら、自分を向
上させようとする自発的な心」への一助になろうとも考えました。
以上のようなことから、常陽会では積極的にボランティアの皆さんの
参加を広く求めていきました。
今では、監督庁からの指導で、「外部評価制度のシステム」や、「小
規模多機能型居宅介護」事業所では、外部の人である住民からな
る、「運営推進会議」なども設立されているところとなって、介護の現
場が「密室的」などと心配されることは皆無となり、この方面のことは、
昔の悪い例としての「語り草」になろうとしていることは良いことだと思
います。
これからも常陽会としては、ボランティアの方々からの善意をありが
たくお受けしながら、業務の「明るい」推進に努力していきたいと思っ
ています。
理事長として心を込めて、ボランティアの方々に厚く御礼を申し述べ
る次第です。
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青年はいたずら好き?人魚の受難!


人魚の像です。見る角度によって感じが違います。光線によっても違います。
昨日のブログでデンマークのコペンハーゲンの女性の日光浴のこと
を書きましたが、その時、関連した資料を見ていたら、同じコペンハー
ゲンの有名観光ポイントとして、人魚の像の写真が出てきました。
人魚の像は私も見に行きました。
実物は思ったよりも小柄で、日本人女性が岩の上に横座りに座った
くらいの大きさです。
黒い像です。
とても愛らしく、まるで海中から陸に上がっただけで、恥ずかしく、う
つむいているような像です。
別に表現したら、高貴なお嬢さまの風にも見えます。
ところが、この「秘蔵っ子姫」の身の上にとんでもないこと?が起こっ
たのです。
ある朝、夜明けとともに「秘蔵っこ姫」の姿が現れると、一体誰の仕
業でしょう、な、なんと、昨夜、夜陰に乗じて、姫さまの御胸(みむね)
には白いブラジャーが、そして姫さまの御腰(みこし)にはこれまた白
いパンティーが白いペンキで描かれていたのです。
まるで姫さまの裸身を大勢の観光客の目にさらしておくのが忍びな
かったかのような所業です。
もちろん、すぐに当局によって復元されたということです。
ところで、この国、デンマークの人たちは、とりわけ若者は、というこ
とでしょうか、なかなかいたずら好きのようです。
実は私はある時、偶然、目撃をしてしまったのです。
私は外国の街に行くと、いつも早朝の散歩に出ます。
未知の街を一人で探検するように歩いてみます。
そうすると、様々なことに遭遇することがあります。
コペンハーゲンのチボリ公園の前の通りは、幹線道路として大通り
です。
もちろん、歩道も広くついています。
早朝、ちらほらと早出出勤の通勤者が通ります。
ところが、ここに、未明まで飲んでいたのでしょうか、青年たち3人が
見るからに緩慢(かんまん)な足取りで歩いて来ます。
その反対側向こうから、若いお嬢さん風できりっと身を固めた女性
が、出勤途上のしっかりした足取りで歩いて来ます。
両方の男女たちはちょうど私のいる歩道のあたりですれ違います。
すると、青年のうちのイケメン風のリーダー格の男が、ゆるんだネク
タイを直しながら、その若い女性に話しかけます。
「おはようございます、僕たちは今、駅を探しています。教えていた
だけませんか?」
お嬢さんは最初、3人の酔っ払いのような男たちに話しかけられて、
一瞬緊張したようでしたが、ここはもう朝になった明るい天下の往来
です。
近くには私のような通行人も立っています。
すぐに自信を取り戻したようにして答えます。
しかし、苦笑いを浮かべて、(私を朝からからかっているのね)という
風に、「私も通りすがりで、不案内なのですが、駅はあそこにあるのではないで
しょうか。」と言って、すぐ横の建物を指差します。
そうです、ここは駅前広場のまん前なのです。
しかもれっきとしたコペンハーゲン中央駅です。
現地の人なら誰知らぬ者があろうはずはありません。
3人の青年たちは冗談を言って、お嬢さんに話しかけるのが目的だったのです。
3人の青年たちは「ありがとうございました」と、丁寧に礼を言って、
お嬢さんの後ろ姿を見送りました。
お嬢さんはつんとすまして行ってしまいました。
もちろん後ろなど振り向きません。
私は映画のワンシーンのようにして見ていました。
そして、思いました。
まあ、こんな国なら人魚像もあんな難に遭うわなあ、と(笑)

チボリ公園です。この公園のすぐ隣はコペンハーゲン中央駅です。
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北欧女性たちの街なか裸の日光浴
私は最初、マネキンが捨てられている・・・と思いました。
デンマークの首都、コペンハーゲンにある公園に入って行った時で
した。
しかし、公園内の道に沿って近づいていくと、それは若い女性の真
っ白い肌の「女体」だと気付かされました。
「ドキッ」としました。
思わず目を背けながらも見てしまったところでは、その「女体」は小さ
な敷物を敷いて、最小限の下着を着けて青い芝生の上に寝転がって
います。
昼寝をしているかのように「日光浴」をしているのです。
真っ白い肌の「女体」は、日本人離れした白さですし、芝生とはい
え、草むらの上に肢体を広げて静止してある状態は、白人モデルのマ
ネキンが横たえられて、「捨てられて」いると、私は一瞬錯覚したので
す。
日本ではそのような光景は考えられませんでしたから。
道に沿って歩いていくと、だんだん近づいてきますが、日本人男性
がジロジロ見ていると思われたくないので、動じない「フリ」をしなが
ら、通り過ぎます。
「やややっ」 一難去ってまた一難? またまた先方に白い裸体が、
いや、もっと先方にも、白い裸体、裸体。
これがこの国では普通なんだ~ぁ、と納得した思いでした。
そうして、おろかにも私は、「いい国へ来たもんだ~あ」と、またして
も密かな「喜び」?が胸の中で芳香のように広がります。(少しおおげ
さ)(笑)
北欧の国では、年中を通じてみたら、太陽を浴びる時間が少ないそ
うです。
日光を浴びないと、名前は忘れましたが、体に障害が起こり、病気
になってしまうからです。(調べてみると、ビタミンDが不足して「皮膚
結核」のような病気になるそうです)
それゆえ、短い夏は、日中に時間のある時には、太陽が照ったらす
ぐに、例えば自転車などに乗って、敷物を持って、日当たりのよい草
地に行って太陽に体を晒(さら)すそうです。
バスで市内観光をしていると、土手下の河川敷など、ちょっとした草
地で特に裸の女性が目立ってたくさんいます。
北欧の夏は日本と変わらないほど暑い日差しはあります。
街なかの道路を日陰を選んで歩いているのは日本人観光客です。
現地の人たちは日向を選ぶようにして歩いています。
進んで日光を浴びようとしているのです。
肌に日光を避けていたら、病気になってしまうというのですから、そ
のせいか、いや、それ以外の奔放な気質のせいか、日本人女性に比
べたら「脱ぎっぷり」もいいです。
きっと、日本人女性は「儒教的精神」に縛られているせいでしょう。
「たしなみ」でしょうか、行動が内向きに見えます。
北欧は大いに解放的です。
短い夏の夜などは、若者たちは眠らないで遊んで過ごすそうです。
ところで、私のような日本人男性に、現地ガイドさんは冗談を言って
教えて(?)くれます。
「日光浴をしている女性の体を見たかったら近くに行けばいいので
す。どうやったら、近くに行けるでしょうか?答えは簡単です。あなたも
裸になって、隣で日光浴を始めればいいのですよ~っ」って。
さて、日本人男性は素直に実行できますでしょうか?(笑)

にぎわっている、夏の歩行者天国

夏でも日向で食事をする現地の人たち
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常陽会の夏のボーナスは7月13日支給です。
今、そのボーナス査定に理事長の私はかなり神経質になっていま
す。
その理由は、施設、事業所の数が多くなって、それにつれて職員の
数が増加していますが、なんとか全職員が平等な査定の基に、それ
ぞれの職員に満足か、満足に近い気持ちでボーナスを受け取っても
らいたいと思うからです。
一応、ボーナス支給額の決定までの手順を言いますと、まず第一段
階として、各施設長や事業所の責任者のみなさんに現当している職
員全員のリストが配布されます。
リストには、各職員のデータが記載されています。
データとは、入職日や、役職や、年齢や、前回支給額や、基本支給
額(給料の1.5月分)など、いくつかの査定のための必要項が載ってい
ます。
それを参考にして、各施設長や事業所責任者が各職員ごとの支給
額を自ら査定した上で書き入れます。
そして、その査定票を理事長の私に個々に所定日までに届出ます。
第二段階として、理事長の私が、第一段階の査定に誤りや、見直し
点や、公平性があるかなどを点検します。
理事長としては、主に次の点を留意します。
①第一段階での査定者たちの間に、評価の基準にバラつきはな
いか。
②全施設、全職員が平等、公平に査定されているかどうか
その上で、今度は理事長の私の立場で、各施設長や事業所責任者
など第一段階の査定者のみなさんを査定します。
ボーナス査定で毎回私が思うことは、誰か神様のような、100%公
平な評価をしてくれる人はいないものかということです。
神ならぬ身が行う査定に100%の公平性があるとは、とても断言で
きません。
職員のみなさんにおいては、いろいろ不満なことはあると思われま
すが、特に一言、言わねばならないという人があれば、どうぞ、第一
段階の査定に関わった上司や、全責任を負っている理事長の私に意
見を述べて下さい。
問題点を解決しながら、査定の精度を高めていたいと願っていま
す。
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毎年7月1日~3日まで、蒲原まつりです。
前日の30日は宵宮です。
私は昨日、昼過ぎころ祭りに行っていきました。
きっと20年ぶりくらいです。
だんだんと盛り上がりがなくなってきたと思いました。
もはや祭り特有の熱気も感じられません。
また、「昔の話」になりますが、昔は活気がありました。
地から湧くような、期待と熱意と活力がありました。
それはそのはずです。
昔はろくな娯楽も、楽しみも、ごちそうも、なんにもありませんでした。
休日だって、農村では月に2日くらいしかなかったと思います。
それが蒲原まつりになれば、宵宮から合計4日間も連休があるので
すから、それこそ大の大人が「もういくつ寝ると・・・」と、待ち遠しく思っ
たものです。
いまここで私が書ききれないくらいのボリュームの喜びがありました。
蒲原まつりと言いますから、県下の蒲原郡(ごうり)全体の祭りだっ
たのでしょう。
すると今、蒲原は東西南北と「中」の蒲原5つに分かれていることに
なります。
中蒲原には、みなさんは聞き慣れないかもしれませんが、市町村合
併が行われる前は、旧新潟市以外は亀田郷はどこでも、中蒲原郡で
した。
新潟市の市町村合併は2回行ったようなのですが、私の住んでいる
大形などもずっと昔は中蒲原郡大形村・・・となっていました。
つい先ごろの平成の大合併の前までは、中蒲原郡亀田町・・・と呼ば
れていたのです。
黒埼町だって、西蒲原郡黒埼町です。
水原や京ケ瀬だって、北蒲原郡水原町とか、京ケ瀬村とかと、つい
「先日」の平成大合併まで言われていたのです。
つい「蒲原」の説明に紙面を費やしましたが、私が言いたいのは蒲
原は広いということです。
ですから、祭りになると遠くからはバスや電車、徒歩で蒲原神社へ
やって来ました。
マイカーが普及したのはごく最近です。
私なんかも子供の頃は、蒲原まつりに行くのに3時間も歩いた記憶
があります。
行政区が今ほど細かくない昔は、蒲原平野の一帯としての共通項
は、米作りの土地ということでした。
昔は、お米がとれる事は、豊かさの象徴でした。
米は一番の安定収入でした。
だから、江戸時代だって、GNPは、お米の石高で、○○藩○万石、な
どと言われていました。
明治になっても、国税の基幹は地租という、土地を持っている人(農
民)からの税金でした。
このように考えると、蒲原平野は裕福なところであったと思われま
す。
余談ですけど、新潟県が人口で日本一を誇った時代があったので
すよ。
明治12年頃は、新潟県は人口日本一でした。
その頃の東京は12番目くらいでした。
人口をたくさん抱えていられることは、それだけ当時としては富裕で
あったということです。
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ともかく、私が昨日、久しぶりに蒲原まつりに行って感じたことは、時
代とともにそこに住む人たちの風俗は移り変わるものであるし、私も
また、移り変わる民衆の一人であるということでした。
蒲原を形成しているものは大地です。
大地を直接、耕して農業があり、それによって人々が養われました。
蒲原の歴史はそこに住んだ人たちの愛憎の歴史だったと思いま
す。
でも、私が昨日、不思議に(奇異に)思ったことは、神社にお参りす
る人たちが長い列を作って、かなりの「長時間」神前でのお参りの順
番を待っていたことでした。
私も並んでお参りをしてきました。
なんと言ってお参りしたか?ですが、それは簡単、明瞭、自然に出
ました。
『五穀豊穣』でした。
もう農業などしていなくて、私の生計は常陽会の運営からいただ
いているのに、蒲原神社様に祈念することは、『五穀豊穣』なので
すね。(神妙)
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