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2014.02.28
日本歴史物語④邪馬台国 所在地論争(2)「邪馬台国」「卑弥呼」「倭」とは何だ?
日本歴史物語④
邪馬台国 所在地論争(2)
「邪馬台国」「卑弥呼」「倭」とは何だ?

Wikipediaより 「吉野ヶ里遺跡」
「邪馬台国」も「卑弥呼」も「倭」も、その時代の中国人がそれぞれにつけた文字です。
中国人には中華思想がありますから、周辺の人や国などを蔑視(べっし)しているせいでしょう。悪い字をあてているのが常のようです。
総じて周辺、東西南北の異民族などを称して「東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)」と言っていたようです。
夷(い)も戎(じゅう)も蛮(ばん)も狄(てき)もひとつの「蔑称」です。
民族の個称として例をあげれば「倭(わ)」や「鮮卑(せんぴ)」、「匈奴(きょうど)」などがあります。
「倭」は、倭国(日本)倭人(日本人)などと使いますが、「背が丸く曲がって低い人を指す」とされる文字ですから、決して良い字ではないのです。
「邪馬台国」は、日本人が「ヤマト」と言っていたのをカタカナ的に音からヤマトを「邪馬台」とし「国」を語尾につけたものでしょう。トの音に台をあてたもので、これを日本では日本読みで律義にも台をタイと発音しているのです。
当時の日本人が自らを「ヤマタイ」と言ったものではなく「ヤマト」と言ったものを中国人が「邪馬台」と表記したものなのです。
ちなみに中国語では、アメリカ(合衆国)をその発音のアクセントがメィにあることで、「美国」としています。(日本は同じような理由でも「米国」と表記しています。)
美は中国語では「メィ」の発音がありますから、アメリカを良い字で「美国」と表記したのは、当時(18世紀)アメリカの台頭が大国で先進的な文化を持っている国として崇められたからでしょう。
さて、前述したように「邪馬台国」は「ヤマト(国)」ですが、そのあて字は、やはり良いものではないのです。
「邪」は「よこしまで、正道から外れてねじけている」という意味の文字です。「馬」は家畜であったり、戦車を引いたり人間のために労役をする道具でしかないものであるとの理解です。
「台」は悪い文字ではありませんので、そこでこれがつくと国名らしく見えます。
では、「卑弥呼」はどうでしょう。
これも悪い字であることは、あらためて論ずるまでもないので 「卑弥呼」の漢字の解説は省略して、発音の「ヒミコ」についての解説を次のようにしましょう。
日本の古代において、天皇の男の子は「皇子」「親王」であって、「みこ」と呼ばれていました。
同じく女子は「皇女」「内親王」で「ひめみこ」と呼ばれていました。
この場合、個人の本当の名は呼ばれることはなく、仮に姉妹であれば上のひめみこ、下のひめみこなどと呼ばれます。後世の例ですが、源氏物語などに見られます、一般に名を明かさないのは呪詛(じゅそ:恨みに思う相手に災いが起こるように神仏に祈願すること)の対象になるとされたからです。
ですから、「卑弥呼」は個人名ではなく、「実名」ではありません。
そこで「ひめみこ」が中国人には「ひみこ」と聞かれ「卑弥呼」の文字があてられたと考えられます。
ですから、「邪馬台」も「卑弥呼」も日本人がこの文字を使って自ら名乗ったり、書いたりした文字ではなく、当時の中国人が「まことに勝手ながら」つけた「当て文字」なのです。
このように考えて、「邪馬台国」は「ヤマト(国)」であり、(この例で言うと例えば 日本の政府専用機の機体には「日本国」と大書されています)
さらに「卑弥呼」は「ひめみこ」であるとすれば、これはすなわち、そのすぐ後の時代の「大和王権」や「大和朝廷」の前身を示唆するものとして、「邪馬台国(ヤマト)」の所在地が畿内(奈良県あたり)とする説が有力となるものです。
このようなことからも私の畿内説は、じゅうぶん説得力を得てくるものとなるのです。

復元された卑弥呼像
邪馬台国 所在地論争(2)
「邪馬台国」「卑弥呼」「倭」とは何だ?

Wikipediaより 「吉野ヶ里遺跡」
「邪馬台国」も「卑弥呼」も「倭」も、その時代の中国人がそれぞれにつけた文字です。
中国人には中華思想がありますから、周辺の人や国などを蔑視(べっし)しているせいでしょう。悪い字をあてているのが常のようです。
総じて周辺、東西南北の異民族などを称して「東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)」と言っていたようです。
夷(い)も戎(じゅう)も蛮(ばん)も狄(てき)もひとつの「蔑称」です。
民族の個称として例をあげれば「倭(わ)」や「鮮卑(せんぴ)」、「匈奴(きょうど)」などがあります。
「倭」は、倭国(日本)倭人(日本人)などと使いますが、「背が丸く曲がって低い人を指す」とされる文字ですから、決して良い字ではないのです。
「邪馬台国」は、日本人が「ヤマト」と言っていたのをカタカナ的に音からヤマトを「邪馬台」とし「国」を語尾につけたものでしょう。トの音に台をあてたもので、これを日本では日本読みで律義にも台をタイと発音しているのです。
当時の日本人が自らを「ヤマタイ」と言ったものではなく「ヤマト」と言ったものを中国人が「邪馬台」と表記したものなのです。
ちなみに中国語では、アメリカ(合衆国)をその発音のアクセントがメィにあることで、「美国」としています。(日本は同じような理由でも「米国」と表記しています。)
美は中国語では「メィ」の発音がありますから、アメリカを良い字で「美国」と表記したのは、当時(18世紀)アメリカの台頭が大国で先進的な文化を持っている国として崇められたからでしょう。
さて、前述したように「邪馬台国」は「ヤマト(国)」ですが、そのあて字は、やはり良いものではないのです。
「邪」は「よこしまで、正道から外れてねじけている」という意味の文字です。「馬」は家畜であったり、戦車を引いたり人間のために労役をする道具でしかないものであるとの理解です。
「台」は悪い文字ではありませんので、そこでこれがつくと国名らしく見えます。
では、「卑弥呼」はどうでしょう。
これも悪い字であることは、あらためて論ずるまでもないので 「卑弥呼」の漢字の解説は省略して、発音の「ヒミコ」についての解説を次のようにしましょう。
日本の古代において、天皇の男の子は「皇子」「親王」であって、「みこ」と呼ばれていました。
同じく女子は「皇女」「内親王」で「ひめみこ」と呼ばれていました。
この場合、個人の本当の名は呼ばれることはなく、仮に姉妹であれば上のひめみこ、下のひめみこなどと呼ばれます。後世の例ですが、源氏物語などに見られます、一般に名を明かさないのは呪詛(じゅそ:恨みに思う相手に災いが起こるように神仏に祈願すること)の対象になるとされたからです。
ですから、「卑弥呼」は個人名ではなく、「実名」ではありません。
そこで「ひめみこ」が中国人には「ひみこ」と聞かれ「卑弥呼」の文字があてられたと考えられます。
ですから、「邪馬台」も「卑弥呼」も日本人がこの文字を使って自ら名乗ったり、書いたりした文字ではなく、当時の中国人が「まことに勝手ながら」つけた「当て文字」なのです。
このように考えて、「邪馬台国」は「ヤマト(国)」であり、(この例で言うと例えば 日本の政府専用機の機体には「日本国」と大書されています)
さらに「卑弥呼」は「ひめみこ」であるとすれば、これはすなわち、そのすぐ後の時代の「大和王権」や「大和朝廷」の前身を示唆するものとして、「邪馬台国(ヤマト)」の所在地が畿内(奈良県あたり)とする説が有力となるものです。
このようなことからも私の畿内説は、じゅうぶん説得力を得てくるものとなるのです。

復元された卑弥呼像
コメントのある方は下記の理事長のメールアドレスへお寄せください。
jyouyoukai2312-blog@yahoo.co.jp
2014.02.24
日本歴史物語③ 邪馬台国 所在地論争(1)卑弥呼の女王国は、畿内(奈良県)にあった
日本歴史物語③
邪馬台国 所在地論争(1)
卑弥呼の女王国は、畿内(奈良県)にあった

安田靫彦(やすだゆきひこ)作品 「卑弥呼」
日本の古代史において最大の謎と言ったら、表記の「邪馬台国の所在地」ということになるかも知れません。
最近でも卑弥呼の墓(古墳)はどこだとかと話題が新聞などによく報道されます。
「邪馬台国」「卑弥呼」については、「魏志倭人伝」に記述されていることがすべてです。
私は、40年くらい前からこの問題に興味を持って、関連の情報に注意を払ってきました。
そこで私の結論から言えば、邪馬台国は畿内にあったとすべきなのです。
「魏志倭人伝」は、漢文にして2000字(400字づめ原稿用紙5枚)くらいのボリュームですから、書き下し文を参考にすれば、誰にでも読むことはできます。
これを素直に平明にその「大意」を読めば、「畿内」とするよりほかありません。なぜならば、「魏志倭人伝」では邪馬台国への道程が「帯方郡の使者」(以下 使者)の「旅行記」「報告記」として引用される形で記述されているのですが、使者は、伊都国までしか来ていないのです。
そう判断する理由は、伊都国まではその滞在地のことが自らの見聞によって書かれていますが、それ以後の地点のことについては、特に自らの記述はないのです。
このように、「使者」が邪馬台国まで行っていないとする、このことから導き出される結論は、以下のようになります。
***さて 以下の理由から邪馬台国の位置を明確に求めている説を唱えているのは 不思議にも実は全国で私が初めてなのです。
もし 先に述べておられる人がいたら ぜひ指摘していただきたいと思います。***
今日、邪馬台国の所在地であったろうとされるところは、「北九州」または「畿内」の2点にしぼられているわけですから、「北九州」の「有力」候補地点までは、せいぜい伊都国から50㎞くらいの範囲の地点となっています。これは、新潟から長岡まで届かないくらいの近さにあるわけです。よって、「使者」が行けないわけも、行かないわけも合理的には説明が極めてつきにくいということになります。

一方、「畿内」とすれば、記述からして片道、だいたい2ヶ月から3か月くらいもかかるとされる地点ですから、伊都国から何らかの理由で行かなかった理由としては、「そこが遠くにあって、長い期間がかかるから」という合理的な理由がつけられます。
当時は、渡航の時期というものがあって、その時期というのは3月から5月くらいの間とされているようです。
「使者」は、なんらかの理由で1年以上は倭国にとどまることができないという理由で、すぐさま短い期間で帰国したに違いありません。
わずか50㎞くらいの間だったら、往復5~6日もあれば当時としても行って帰って来られる距離です。「使者」なら必ず行ったでしょう。それが行けなかったのは 行かなかったのは
すなわち 邪馬台国は遠い所にあったから、もし行っていたら翌年の3月~5月まで帰ることができなかったので、「使者」は邪馬台国に行くことができなかった とすることが極めて順当な理由となるのです。
もし 事実行っていたとしたら もっと生々しい「見聞」を書いているはずです。
よって、これらの事情から私は、邪馬台国は畿内の奈良県あたりにあったと主張するのです。
ところで、私がこのような「自説」を「勝手」に唱えられる理由は、実は「邪馬台国所在地論争」というのは、不幸にして?古来、だれもが、勝手気ままと思えるほど、時には「でたらめ」なほど自由に自説を立てて発表してきました。
確たる証拠がないことに乗じて?まさに百花繚乱のごときなのです。だいたい200説くらいはあるらしいです。
その理由については、また次の機会に書きましょう。
それほどに この問題はその人をしてロマンに駆り立てる問題と言えるのでしょう。
邪馬台国 所在地論争(1)
卑弥呼の女王国は、畿内(奈良県)にあった

安田靫彦(やすだゆきひこ)作品 「卑弥呼」
日本の古代史において最大の謎と言ったら、表記の「邪馬台国の所在地」ということになるかも知れません。
最近でも卑弥呼の墓(古墳)はどこだとかと話題が新聞などによく報道されます。
「邪馬台国」「卑弥呼」については、「魏志倭人伝」に記述されていることがすべてです。
私は、40年くらい前からこの問題に興味を持って、関連の情報に注意を払ってきました。
そこで私の結論から言えば、邪馬台国は畿内にあったとすべきなのです。
「魏志倭人伝」は、漢文にして2000字(400字づめ原稿用紙5枚)くらいのボリュームですから、書き下し文を参考にすれば、誰にでも読むことはできます。
これを素直に平明にその「大意」を読めば、「畿内」とするよりほかありません。なぜならば、「魏志倭人伝」では邪馬台国への道程が「帯方郡の使者」(以下 使者)の「旅行記」「報告記」として引用される形で記述されているのですが、使者は、伊都国までしか来ていないのです。
そう判断する理由は、伊都国まではその滞在地のことが自らの見聞によって書かれていますが、それ以後の地点のことについては、特に自らの記述はないのです。
このように、「使者」が邪馬台国まで行っていないとする、このことから導き出される結論は、以下のようになります。
***さて 以下の理由から邪馬台国の位置を明確に求めている説を唱えているのは 不思議にも実は全国で私が初めてなのです。
もし 先に述べておられる人がいたら ぜひ指摘していただきたいと思います。***
今日、邪馬台国の所在地であったろうとされるところは、「北九州」または「畿内」の2点にしぼられているわけですから、「北九州」の「有力」候補地点までは、せいぜい伊都国から50㎞くらいの範囲の地点となっています。これは、新潟から長岡まで届かないくらいの近さにあるわけです。よって、「使者」が行けないわけも、行かないわけも合理的には説明が極めてつきにくいということになります。

一方、「畿内」とすれば、記述からして片道、だいたい2ヶ月から3か月くらいもかかるとされる地点ですから、伊都国から何らかの理由で行かなかった理由としては、「そこが遠くにあって、長い期間がかかるから」という合理的な理由がつけられます。
当時は、渡航の時期というものがあって、その時期というのは3月から5月くらいの間とされているようです。
「使者」は、なんらかの理由で1年以上は倭国にとどまることができないという理由で、すぐさま短い期間で帰国したに違いありません。
わずか50㎞くらいの間だったら、往復5~6日もあれば当時としても行って帰って来られる距離です。「使者」なら必ず行ったでしょう。それが行けなかったのは 行かなかったのは
すなわち 邪馬台国は遠い所にあったから、もし行っていたら翌年の3月~5月まで帰ることができなかったので、「使者」は邪馬台国に行くことができなかった とすることが極めて順当な理由となるのです。
もし 事実行っていたとしたら もっと生々しい「見聞」を書いているはずです。
よって、これらの事情から私は、邪馬台国は畿内の奈良県あたりにあったと主張するのです。
ところで、私がこのような「自説」を「勝手」に唱えられる理由は、実は「邪馬台国所在地論争」というのは、不幸にして?古来、だれもが、勝手気ままと思えるほど、時には「でたらめ」なほど自由に自説を立てて発表してきました。
確たる証拠がないことに乗じて?まさに百花繚乱のごときなのです。だいたい200説くらいはあるらしいです。
その理由については、また次の機会に書きましょう。
それほどに この問題はその人をしてロマンに駆り立てる問題と言えるのでしょう。
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2014.02.20
世界旅物語51 バリ島 イルカウォッチングから逃げ帰った私
世界旅 物語(51) バリ島
イルカウォッチングから逃げ帰った私

もう、昔になってしまいましたが(関空が開業した頃)私は夫婦でバリ島へ旅行した時がありました。
関空-新潟便がありました。
新幹線や電車に乗って、東京、成田まで行かなくても良くなったので当時、開設したばかりの関空を使用しました。関空からはバリ島のデンパサールまで直行でした。
バリ島は西側の海と東側の海があって、日本海側と太平洋側くらい海の環境が違うようです。
東側の海はおだやかで、レジャー向きになっています。バナナボートやパラセーリングなどで賑わっていました。
私たち夫婦は、イルカウォッチングツアーに参加しました。1人7,000円くらいだったかもしれません。
行って見ると他の参加者は誰もいなくて、私たち夫婦2人だけでした。でも、舟を出して出発してくれることになりました。

イルカは外洋にいるというので出発地点のヌサドゥアビーチが見えなくなるくらい沖にでました。
沖(外洋)に出ると海の色が暗い群青になります。波も高く、うねりも大きく、風も強く、行くにしたがって不安になってきました。
舟はレジャーボートのような小さな舟なのです。私たち夫婦と、ガイドと操縦士の4人だけです。
行けども行けどもイルカはいません。もう少しもう少しとガイドは せっかく日本から来た私たちにイルカを見せてあげようという親切心と 必ずいるはずだという確信からか、沖へ沖へと舟を進めます。
陸育ちで典型的な農耕民族の私は、とっても不安になってきました。
そして、とうとう私はガイドに「もういいから岸へ帰ろう」といいました。ガイドは「もう少し行けばイルカは見つかります」などと言って、まだまだ先へ行く気です。
イルカだって生き物ですから、必ずその日そこにいるとは限らないということは聞いていました。
私はついに、ガイドに、もう怖くなったので帰るように頼みました。高所恐怖症の人が高いところで怖くなるような現象だったのでしょう。
ついに、ガイドさんも残念そうにして舟を帰る方向に向けてくれました。舟は無事にヌサドゥアビーチに帰りました。
私は、沖では「生きたここち」がしなかったので、イルカを見ることは叶いませんでしたが、それが惜しくはないくらい安堵したものでした。
今、そんなことを思い出しました。
この文字をクリックすると大きな地図で見れます
イルカウォッチングから逃げ帰った私

もう、昔になってしまいましたが(関空が開業した頃)私は夫婦でバリ島へ旅行した時がありました。
関空-新潟便がありました。
新幹線や電車に乗って、東京、成田まで行かなくても良くなったので当時、開設したばかりの関空を使用しました。関空からはバリ島のデンパサールまで直行でした。
バリ島は西側の海と東側の海があって、日本海側と太平洋側くらい海の環境が違うようです。
東側の海はおだやかで、レジャー向きになっています。バナナボートやパラセーリングなどで賑わっていました。
私たち夫婦は、イルカウォッチングツアーに参加しました。1人7,000円くらいだったかもしれません。
行って見ると他の参加者は誰もいなくて、私たち夫婦2人だけでした。でも、舟を出して出発してくれることになりました。

イルカは外洋にいるというので出発地点のヌサドゥアビーチが見えなくなるくらい沖にでました。
沖(外洋)に出ると海の色が暗い群青になります。波も高く、うねりも大きく、風も強く、行くにしたがって不安になってきました。
舟はレジャーボートのような小さな舟なのです。私たち夫婦と、ガイドと操縦士の4人だけです。
行けども行けどもイルカはいません。もう少しもう少しとガイドは せっかく日本から来た私たちにイルカを見せてあげようという親切心と 必ずいるはずだという確信からか、沖へ沖へと舟を進めます。
陸育ちで典型的な農耕民族の私は、とっても不安になってきました。
そして、とうとう私はガイドに「もういいから岸へ帰ろう」といいました。ガイドは「もう少し行けばイルカは見つかります」などと言って、まだまだ先へ行く気です。
イルカだって生き物ですから、必ずその日そこにいるとは限らないということは聞いていました。
私はついに、ガイドに、もう怖くなったので帰るように頼みました。高所恐怖症の人が高いところで怖くなるような現象だったのでしょう。
ついに、ガイドさんも残念そうにして舟を帰る方向に向けてくれました。舟は無事にヌサドゥアビーチに帰りました。
私は、沖では「生きたここち」がしなかったので、イルカを見ることは叶いませんでしたが、それが惜しくはないくらい安堵したものでした。
今、そんなことを思い出しました。
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世界旅 物語(50)
スペイン バルセロナにある
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)に行って
“超”驚くことは?

Wikipediaより 『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』
私は今から20年くらい前にスペインのバルセロナにある、サグラダ・ファミリア(日本語では、聖家族贖罪教会と呼ばれることが多い)に行きました。
さて、ここで皆さんに「クイズ」です。
入口からここに入って、すぐに「“超”驚く」ことがあります。私はそこに立って、思わず「な、なんなんだ!!」と叫んでいました(笑)
その理由は何でしょう!
その答えは、天上を見たら天上がないのです。上を見たら「空」なのです。つまり屋根がないということです。
そうです。この建物はまだ「建築中」なのです。
この建築がはじまったのは、今から132年も前の1882年のことだそうです。
建物を建てるには、まず外郭の「柱」を立てて、外郭を固定してから、そこに梁を渡して屋根を作りますが、私が行った当時、まだ外郭の四方のうち、一方の外郭が建築中でした。
この建物は、日本ではスペインの建築家アントニ・ガウディが全部をデザインしたように言われて、独特なスタイルの構造物が写真などで紹介されていますが、よく聞くと、アントニ・ガウディ(1852~1926)の作となる部分は外郭の四方のうちの一方のみなのです。

Wikipediaより 「建築家 アントニ・ガウディ」
他の部分は、他の年代の建築家による建造物なのです。
ともかく、行って見てわかることは、この建物はまだ建築中で屋根がまだ張られていないということです。ビックリです。
そこで近年になって、この建造物の完成は2026年と発表され、その完成イメージ動画が公表されて、それが「すごすぎる」と「世界中で話題になっている」ということです。
今、私もその動画を見てみましたが、すばらしく「すごすぎる」完成図でした。

完成イメージ画像
スペインなどのラテン系の国では、予定が「未定」で、正しく完成するとは、にわかに信じられないとする見方も当然でてきますが、完成した暁には、世界中にブームがまきあがることは必定です。
ぜひ、楽しみに待ちたいと思います。
スペイン バルセロナにある
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)に行って
“超”驚くことは?

Wikipediaより 『サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)』
私は今から20年くらい前にスペインのバルセロナにある、サグラダ・ファミリア(日本語では、聖家族贖罪教会と呼ばれることが多い)に行きました。
さて、ここで皆さんに「クイズ」です。
入口からここに入って、すぐに「“超”驚く」ことがあります。私はそこに立って、思わず「な、なんなんだ!!」と叫んでいました(笑)
その理由は何でしょう!
その答えは、天上を見たら天上がないのです。上を見たら「空」なのです。つまり屋根がないということです。
そうです。この建物はまだ「建築中」なのです。
この建築がはじまったのは、今から132年も前の1882年のことだそうです。
建物を建てるには、まず外郭の「柱」を立てて、外郭を固定してから、そこに梁を渡して屋根を作りますが、私が行った当時、まだ外郭の四方のうち、一方の外郭が建築中でした。
この建物は、日本ではスペインの建築家アントニ・ガウディが全部をデザインしたように言われて、独特なスタイルの構造物が写真などで紹介されていますが、よく聞くと、アントニ・ガウディ(1852~1926)の作となる部分は外郭の四方のうちの一方のみなのです。

Wikipediaより 「建築家 アントニ・ガウディ」
他の部分は、他の年代の建築家による建造物なのです。
ともかく、行って見てわかることは、この建物はまだ建築中で屋根がまだ張られていないということです。ビックリです。
そこで近年になって、この建造物の完成は2026年と発表され、その完成イメージ動画が公表されて、それが「すごすぎる」と「世界中で話題になっている」ということです。
今、私もその動画を見てみましたが、すばらしく「すごすぎる」完成図でした。

完成イメージ画像
スペインなどのラテン系の国では、予定が「未定」で、正しく完成するとは、にわかに信じられないとする見方も当然でてきますが、完成した暁には、世界中にブームがまきあがることは必定です。
ぜひ、楽しみに待ちたいと思います。
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2014.02.13
ソフィア輝 - ご家族を交えて「和食 食事会」
ソフィア輝 - ご家族を交えて「和食 食事会」
特別養護老人ホーム ソフィア輝では、年2回ご家族を交えて「食事会」が開かれることになっています。
昨日は、入居者の方々のご希望で和食の「食事会」となりました。
場所は中庭に面した広い連絡通路を利用して行われました。



特養に入所してしまわれると、なかなかご自宅にお帰りになる機会がなくなります。
したがって、ご家族と食事を共にする機会がなくなります。
昨日は、ご家族のみなさんが「ソフィア」にやって来られて、久しぶりに「水入らず」で食事をご一緒になされました。
私もおよばれにあずかり、ご相伴させていただきました。

なかなかのボリュームであり、お味であり、内容のある献立でした。デザートもついていて、私はお昼の食事としてはお腹いっぱいになりました。



日頃はお目にかかったことのないご家族のみなさんでいらっしゃったので、丁寧にご挨拶してまいりました。
また、次回の「食事会」が楽しみになりました。
特別養護老人ホーム ソフィア輝では、年2回ご家族を交えて「食事会」が開かれることになっています。
昨日は、入居者の方々のご希望で和食の「食事会」となりました。
場所は中庭に面した広い連絡通路を利用して行われました。



特養に入所してしまわれると、なかなかご自宅にお帰りになる機会がなくなります。
したがって、ご家族と食事を共にする機会がなくなります。
昨日は、ご家族のみなさんが「ソフィア」にやって来られて、久しぶりに「水入らず」で食事をご一緒になされました。
私もおよばれにあずかり、ご相伴させていただきました。

なかなかのボリュームであり、お味であり、内容のある献立でした。デザートもついていて、私はお昼の食事としてはお腹いっぱいになりました。



日頃はお目にかかったことのないご家族のみなさんでいらっしゃったので、丁寧にご挨拶してまいりました。
また、次回の「食事会」が楽しみになりました。
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世界旅 物語(49)
ジュディ・オング「魅せられて」の
あの衣装のルーツは
遠く3500年前のツタンカーメンにあった?

エジプト考古学博物館 (トリップアドバイザー提供)

「黄金のマスク」 (トリップアドバイザー提供)
カイロにあるエジプト考古学博物館に行くと「黄金のマスク」で有名な、ツタンカーメン王の王墓から発掘された、たくさんの副葬品が展示されている一画があります。
副葬品は2000点にもおよび、そのすべてはここに集められているとのことです。
もちろん、一番に「魅せられる」遺品は「黄金のマスク」です。
私も一番最初にそこに吸い寄せられるように行って、「黄金のマスク」を見ました。
実は、私はその時が初めての「対面」ではありませんでした。今から49年前の1965年に「黄金のマスク」は日本に来て、東京に展示されていました。
その時、18歳にして私は見ていました。
「黄金のマスク」は「副葬品」「遺品」とはいいますが、例えば、デザイン的にも芸術品として古今を通じて一級品とされています。
私がこの日、特に注目をあらたにしたのは、ツタンカーメン王のミイラの遺体は、なんと8重にも覆われて保護されていたということです。
今、それを簡潔に記したネットの文章を引用してみましょう。
『ツタンカーメンのミイラは、玄室(埋葬室)に置かれた巨大な厨子の中に納められていた。
厨子は四重になっており、最後の厨子の中に箱型の石棺があり、その中に三重の人型棺があり、その第3の人型棺の中に黄金のマスクを付けた王のミイラが横たわっていた。
ミイラを納めた棺は、なんと全体で八重の入れ子式になっていたのだ。』
文中の「厨子(ずし)」というのは、大きな木製の「箱」で、大きくて、大型トラックに積むコンテナのようなものです。
一番外側の「厨子」(コンテナ)は、高さ2m75㎝、 横5m09㎝、奥行き3m25cmという巨大なものです。
この「厨子」のひとつひとつの外側には、金箔などの装飾が施されていて、女神が描かれています。

私が注目したのは、女神の両手に着いている「翼」です。

「厨子」は4重になっているとありましたが、それぞれの「厨子」の側面に、それぞれ違った女神が「翼」を広げているようです。
これが、ジュディ・オングさんが「魅せられて」を歌った時の、あのクジャクが羽を広げたような「衣装」にとっても似ていると思ったのです。

ここに、掲出した2枚の写真よりも一番外側になっていた「厨子」の側面いっぱいに女神が両手(翼)を広げたポーズが一番、ジュディ・オングさんの衣装に似ていましたが、その写真がネットに出ていないのでここでお見せできないのが残念です。
私はこれを見た時、瞬間的に、ジュディ・オングさんの衣装のルーツが3500年前のツタンカーメン王の遺品にその原点があったのかと思ったのでした。
ジュディ・オング「魅せられて」の
あの衣装のルーツは
遠く3500年前のツタンカーメンにあった?

エジプト考古学博物館 (トリップアドバイザー提供)

「黄金のマスク」 (トリップアドバイザー提供)
カイロにあるエジプト考古学博物館に行くと「黄金のマスク」で有名な、ツタンカーメン王の王墓から発掘された、たくさんの副葬品が展示されている一画があります。
副葬品は2000点にもおよび、そのすべてはここに集められているとのことです。
もちろん、一番に「魅せられる」遺品は「黄金のマスク」です。
私も一番最初にそこに吸い寄せられるように行って、「黄金のマスク」を見ました。
実は、私はその時が初めての「対面」ではありませんでした。今から49年前の1965年に「黄金のマスク」は日本に来て、東京に展示されていました。
その時、18歳にして私は見ていました。
「黄金のマスク」は「副葬品」「遺品」とはいいますが、例えば、デザイン的にも芸術品として古今を通じて一級品とされています。
私がこの日、特に注目をあらたにしたのは、ツタンカーメン王のミイラの遺体は、なんと8重にも覆われて保護されていたということです。
今、それを簡潔に記したネットの文章を引用してみましょう。
『ツタンカーメンのミイラは、玄室(埋葬室)に置かれた巨大な厨子の中に納められていた。
厨子は四重になっており、最後の厨子の中に箱型の石棺があり、その中に三重の人型棺があり、その第3の人型棺の中に黄金のマスクを付けた王のミイラが横たわっていた。
ミイラを納めた棺は、なんと全体で八重の入れ子式になっていたのだ。』
文中の「厨子(ずし)」というのは、大きな木製の「箱」で、大きくて、大型トラックに積むコンテナのようなものです。
一番外側の「厨子」(コンテナ)は、高さ2m75㎝、 横5m09㎝、奥行き3m25cmという巨大なものです。
この「厨子」のひとつひとつの外側には、金箔などの装飾が施されていて、女神が描かれています。

私が注目したのは、女神の両手に着いている「翼」です。

「厨子」は4重になっているとありましたが、それぞれの「厨子」の側面に、それぞれ違った女神が「翼」を広げているようです。
これが、ジュディ・オングさんが「魅せられて」を歌った時の、あのクジャクが羽を広げたような「衣装」にとっても似ていると思ったのです。

ここに、掲出した2枚の写真よりも一番外側になっていた「厨子」の側面いっぱいに女神が両手(翼)を広げたポーズが一番、ジュディ・オングさんの衣装に似ていましたが、その写真がネットに出ていないのでここでお見せできないのが残念です。
私はこれを見た時、瞬間的に、ジュディ・オングさんの衣装のルーツが3500年前のツタンカーメン王の遺品にその原点があったのかと思ったのでした。
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2014.02.10
世界旅物語48 アルハンブラ宮殿の教えとは・・・ 完全無欠の絶頂にあるものは滅亡を早める
世界旅 物語(48)
アルハンブラ宮殿の教えとは・・・
完全無欠の絶頂にあるものは滅亡を早める

Wikipediaより 『アルハンブラ宮殿』

Wikipediaより 『アルハンブラ宮殿の中の「ライオンの中庭」』
アルハンブラ宮殿と言えば、現在スペイン屈指の世界遺産であって、世界中から観光客が訪れる名所となっていますが、しかし、これはスペイン人が建造したものではなく、13世紀から15世紀にかけて、スペインを征服していたイスラム人が造ったものです。
当時 異国にありながら「世界遺産」を残した、スペインにおけるイスラムの権勢は絶頂期にあったと言ってよいでしょう。
ところがそのアルハンブラ宮殿を見学していると、現地ガイドさんが注目すべきことを言います。
「みなさんこの世界に誇る建物の一部に建築上の『まちがい』があります。でも、その『まちがい』は、わざとしたものなのです。それは、この世界の中に完全無欠のものがあったら、すなわちその絶頂の時点から滅亡が始まるということです。だから、一部分をわざと不完全にしておくのです。」
と、その場でその箇所を説明してくれましたが、私はその時、その部分を見定めることができずに通過してしまいました。
しかし、このガイドさんの言葉は長く私の意識に残りました。
それから何年かしてから、今度は日光東照宮を見物していた時に、その時の日本人ガイドさんから、やはり同じような説明を受けました。
日光東照宮ももちろん世界遺産として登録されるほどの建築物ですが、この建物にもやはり「不完全な」「まちがい」があるというのです。
それは、「逆さ柱」として知られ柱の中の一本だけ、彫刻の模様が逆向きになっていて、それもわざと「まちがい」を残してあるというのです。
その理由は、あのアルハンブラ宮殿と同じ理由です。
遠くスペインに建てられたイスラムの建築と極東(ヨーロッパ人から見て、東方の一番はずれにある地のこと)の日本の木造様式の建築物が「世界遺産」というレベルにありながら、同じ理由の「まちがい」「不完全」を残しているのです。
栄枯盛衰をくり返した世界の歴史のなかで、「処世の術(すべ)」として人間の「慢心」をいましめたものとして、私の心に残りました。
すべての権勢 繁栄は 満つればすなわち欠ける ということですね。

Wikipediaより 『日光東照宮』

Wikipediaより 『日光東照宮 陽明門 魔除けの「逆柱」』
アルハンブラ宮殿の教えとは・・・
完全無欠の絶頂にあるものは滅亡を早める

Wikipediaより 『アルハンブラ宮殿』

Wikipediaより 『アルハンブラ宮殿の中の「ライオンの中庭」』
アルハンブラ宮殿と言えば、現在スペイン屈指の世界遺産であって、世界中から観光客が訪れる名所となっていますが、しかし、これはスペイン人が建造したものではなく、13世紀から15世紀にかけて、スペインを征服していたイスラム人が造ったものです。
当時 異国にありながら「世界遺産」を残した、スペインにおけるイスラムの権勢は絶頂期にあったと言ってよいでしょう。
ところがそのアルハンブラ宮殿を見学していると、現地ガイドさんが注目すべきことを言います。
「みなさんこの世界に誇る建物の一部に建築上の『まちがい』があります。でも、その『まちがい』は、わざとしたものなのです。それは、この世界の中に完全無欠のものがあったら、すなわちその絶頂の時点から滅亡が始まるということです。だから、一部分をわざと不完全にしておくのです。」
と、その場でその箇所を説明してくれましたが、私はその時、その部分を見定めることができずに通過してしまいました。
しかし、このガイドさんの言葉は長く私の意識に残りました。
それから何年かしてから、今度は日光東照宮を見物していた時に、その時の日本人ガイドさんから、やはり同じような説明を受けました。
日光東照宮ももちろん世界遺産として登録されるほどの建築物ですが、この建物にもやはり「不完全な」「まちがい」があるというのです。
それは、「逆さ柱」として知られ柱の中の一本だけ、彫刻の模様が逆向きになっていて、それもわざと「まちがい」を残してあるというのです。
その理由は、あのアルハンブラ宮殿と同じ理由です。
遠くスペインに建てられたイスラムの建築と極東(ヨーロッパ人から見て、東方の一番はずれにある地のこと)の日本の木造様式の建築物が「世界遺産」というレベルにありながら、同じ理由の「まちがい」「不完全」を残しているのです。
栄枯盛衰をくり返した世界の歴史のなかで、「処世の術(すべ)」として人間の「慢心」をいましめたものとして、私の心に残りました。
すべての権勢 繁栄は 満つればすなわち欠ける ということですね。

Wikipediaより 『日光東照宮』

Wikipediaより 『日光東照宮 陽明門 魔除けの「逆柱」』
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2014.02.06
天野先生、藤川先生 集中指導 部門別少数精鋭で
天野先生、藤川先生 集中指導
部門別少数精鋭で
今月は、3日(月)・4日(火)・5日(水)の3日間にわたり例月のごとく、天野先生、藤川先生の集中指導がありました。
今回は、部門別として少数精鋭で実施されました。
より深く、より詳細に、先生方も職員のみなさんも熱が入りました。
以下は指導の様子です。
後尾に日程表も添付しました。








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部門別少数精鋭で
今月は、3日(月)・4日(火)・5日(水)の3日間にわたり例月のごとく、天野先生、藤川先生の集中指導がありました。
今回は、部門別として少数精鋭で実施されました。
より深く、より詳細に、先生方も職員のみなさんも熱が入りました。
以下は指導の様子です。
後尾に日程表も添付しました。








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