亀田郷物語② 「水との戦い」内と外


 前回の亀田郷物語①において、亀田郷の歴史は「水との戦い」であ

ったと書きましたが、その時、亀田郷は、東西南北、阿賀野川、信

濃川、小阿賀野川、日本海に囲まれていて、それぞれ高く強い堤防を

築いていることから、さながら城塞都市のようだという説明をしまし

た。

 欧州や中国には、城塞都市がたくさんありますが、それらの城塞

は、外部からの敵の侵入に備えたものでした。

 とすると、亀田郷の堤防も外からの水の侵入にだけ備えたものかと

思いますが、実は内側にも厳しく長い戦いがあったのです。

 一応、文献から亀田郷の堤防が大水になって、切れた回数と箇所を

あげると、江戸時代から現代までに、約50回くらい、約20ケ所の所で

あったと記録されています。

 ただ、私が言いたいのは、上記のことは、外側からの「外敵」水害で

したが、内側にも内側の戦いがありました。

 その理由は、外側に向けた堤防は、外側から水は入れませんが、

逆に内側の水も外側には逃がさないということで、すなわち、内側の

水は堤防の外には出ませんから、内側に溜まってしまうことになりま

す。

 このため、堤防内の亀田郷内は、「湿地帯」になってしまいました。

 もともと、水の溜まっていた芦沼に堤防を築いて、内と外を造ったの

ですから、亀田郷の多くは(実は2/3の面積が海抜0m以下の地帯な

のです)、「湿地帯」どころか、「水地帯」だったのです。

 ですから、ひとたび雨が降ると、水の逃げ場がなく、すぐ溜まります

から、たちまち ぬかるみ になります。

 いや、年中がぬかるみ状態でした。

 春の田植えも、秋の収穫も、水の中で胸、腹まで水に浸かって農作

業をしました。

0629理事長ブログ

 このような状態が改良されたのは、「土地改良法」の施行によって、

農地の区画整理工事が行われ、亀田郷で一番低い所、亀田郷の水

溜まり、「鳥屋野潟」から、直接、水を堤防外の信濃川に捨てようとい

う計画の下、親松排水機場が作られました。

 また、堤防内を整然とした区画に改良、すなわち、直線的な道路、

排水路が作られ、降った雨水を直線的に水溜まりである「鳥屋野潟」

に集め、集まった水をすぐさま堤防外の信濃川に排出するという、遠

大な計画を立てて、それを実行しました。

 これによって、亀田郷の乾田化が進み、湿地帯が固い耕地に生ま

れ変わり、その結果、大型農業機械が圃場(ほじょう:田や畑)に難な

く入れるようになりました。

 これによって、亀田郷の農民たちは宿敵「水」に勝つことができ、今

日の美田を確保し、美しい亀田郷の四季を愛(め)で、牛馬にも等し

い、苦しい辛い労働や、過酷な生活環境から解放されたのです。

 私は、今の若者たちが農業を誤解しないかと心配になる時がありま

す。

 それは、稲の苗はプラスチックの箱で作り、田植えはスニーカーを履

いたまま、機械に乗って、田植えは機械がやるものだと思ってしまうこ

とです。

 もし、石油がストップしたら、農業は原始に戻らなければならないの

です。

 はたしてその時、今の若い世代の人たちは農業の原点を思い起こ

すことができるのでしょうか。

 あれれっ?こんなことを心配している私は、もう老婆心でいっぱいの

爺さんになったということなのでしょうか(笑)

※参考文献:亀田郷の歴史(亀田郷土地改良区)



0629理事長ブログ(親松排水機場)
現在の親松排水機場です。ここから鳥屋野潟に溜まった水を信濃川に排出しています。


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