蒲原まつりを知っていますか?


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 毎年7月1日~3日まで、蒲原まつりです。

 前日の30日は宵宮です。

 私は昨日、昼過ぎころ祭りに行っていきました。

 きっと20年ぶりくらいです。

 だんだんと盛り上がりがなくなってきたと思いました。

 もはや祭り特有の熱気も感じられません。

 また、「昔の話」になりますが、昔は活気がありました。

 地から湧くような、期待と熱意と活力がありました。

 それはそのはずです。

 昔はろくな娯楽も、楽しみも、ごちそうも、なんにもありませんでした。

 休日だって、農村では月に2日くらいしかなかったと思います。

 それが蒲原まつりになれば、宵宮から合計4日間も連休があるので

すから、それこそ大の大人が「もういくつ寝ると・・・」と、待ち遠しく思っ

たものです。

 いまここで私が書ききれないくらいのボリュームの喜びがありました。

 蒲原まつりと言いますから、県下の蒲原郡(ごうり)全体の祭りだっ

たのでしょう。

 すると今、蒲原は東西南北と「中」の蒲原5つに分かれていることに

なります。

 中蒲原には、みなさんは聞き慣れないかもしれませんが、市町村合

併が行われる前は、旧新潟市以外は亀田郷はどこでも、中蒲原郡で

した。

 新潟市の市町村合併は2回行ったようなのですが、私の住んでいる

大形などもずっと昔は中蒲原郡大形村・・・となっていました。

 つい先ごろの平成の大合併の前までは、中蒲原郡亀田町・・・と呼ば

れていたのです。

 黒埼町だって、西蒲原郡黒埼町です。

 水原や京ケ瀬だって、北蒲原郡水原町とか、京ケ瀬村とかと、つい

「先日」の平成大合併まで言われていたのです。

 つい「蒲原」の説明に紙面を費やしましたが、私が言いたいのは蒲

原は広いということです。

 ですから、祭りになると遠くからはバスや電車、徒歩で蒲原神社へ

やって来ました。

 マイカーが普及したのはごく最近です。

 私なんかも子供の頃は、蒲原まつりに行くのに3時間も歩いた記憶

があります。

 行政区が今ほど細かくない昔は、蒲原平野の一帯としての共通項

は、米作りの土地ということでした。

 昔は、お米がとれる事は、豊かさの象徴でした。

 米は一番の安定収入でした。

 だから、江戸時代だって、GNPは、お米の石高で、○○藩○万石、な

どと言われていました。

 明治になっても、国税の基幹は地租という、土地を持っている人(農

民)からの税金でした。

 このように考えると、蒲原平野は裕福なところであったと思われま

す。

 余談ですけど、新潟県が人口で日本一を誇った時代があったので

すよ。

 明治12年頃は、新潟県は人口日本一でした。

 その頃の東京は12番目くらいでした。

 人口をたくさん抱えていられることは、それだけ当時としては富裕で

あったということです。

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 ともかく、私が昨日、久しぶりに蒲原まつりに行って感じたことは、時

代とともにそこに住む人たちの風俗は移り変わるものであるし、私も

また、移り変わる民衆の一人であるということでした。

 蒲原を形成しているものは大地です。

 大地を直接、耕して農業があり、それによって人々が養われました。

 蒲原の歴史はそこに住んだ人たちの愛憎の歴史だったと思いま

す。
 でも、私が昨日、不思議に(奇異に)思ったことは、神社にお参りす

る人たちが長い列を作って、かなりの「長時間」神前でのお参りの順

番を待っていたことでした。

 私も並んでお参りをしてきました。

 なんと言ってお参りしたか?ですが、それは簡単、明瞭、自然に出

ました。
 『五穀豊穣』でした。

 もう農業などしていなくて、私の生計は常陽会の運営からいただ

いているのに、蒲原神社様に祈念することは、『五穀豊穣』なので

すね。(神妙)
 



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